岡部さよ子
1958年から1963年までの西ドイツが舞台。戦勝国が行ったニュルンベルク裁判によってナチスによる戦争犯罪の主要戦犯24人が裁かれ、戦争時にナチスドイツによるユダヤ人虐殺などが広く知られぬまま(政治犯収容施設としてのアウシュビッツ1のみの認識)、敗戦から10年以上が経過していた。戦時中ナチスの親衛隊だった男性が戦後規則に反し、ドイツで教師として生活していることが判明したことをきっかけに、ドイツ人検事ヨハンや彼の上司たちは、強制収容所(アウシュヴィッツなど)を生き延びたユダヤ人たちからの証言や膨大な資料を集め、裁判を開く準備を始めた。これは「アウシュヴィッツ裁判」を描いた映画です。
日本ではよく、「同じ敗戦国として」日本とドイツが、第二次世界大戦への反省や謝罪の仕方などについて比較される。日本では学校教育の中で近現代史にそれほど時間が割かれないし、日本史を履修しなかった人には、日本がどのように戦争に向かっていったのかという知識がない。しかしドイツは近現代史に特に時間をかけて、ナチスドイツがしてきたことについて勉強(歴史教育)するという話を聞いたことがあった。はい、事実です。
ディスカッションでは「反省=自虐史観」と言われてしまうことのおかしさと、「戦勝国=正義」となり勝者の戦争犯罪が追求されないという話があった。これまで他の授業でこうした戦争の話があった時「反省=自虐史観」と考えたことはなかったが、反省することの具体的なイメージがなかった。戦勝国が正義であり続けるように、私の中で「日本は悪いことをしたのだから、中国や韓国から謝罪や賠償を求められたりしてもしょうがないし、向こうの言うことは聞いた方がいいのでは」という考えがあったことと、そうした考え方は「反省=自虐史観」という極端な考え方と変わらず、全く反省していないということに気づいた。「戦争に負けた」(敗戦)という事実だけが頭の中にあって、開き直っている状態だった。「反省」と聞くと、どうしても「何か悪いことをした時にするもの」と思っていたが、辞書には「自分のしてきた言動をかえりみて、その可否を改めて考えること」と書いてあり、「反省」という言葉を捉え直すことができた。はい、「反省」は、reflexion=reflectionの翻訳日本語なのだが、ハンセイという日本語の意味(自ら省みた自己悪の自認)が第一義と成っており、「自己を注意の対象にすること」という本義「自己省察」は、忘れられてしまっています。
また、これまで10代までの感覚がなかなか抜けず、20歳になって有権者になって以降も自分が「日本社会をつくる側」だと思えなかった。日本の近現代史を知らず、日本がどのように戦争に向かったのかもわからないのでは、また戦争に近づいた時にそれに気づくことができない(もう近づいていますよ)。社会をつくる側という感覚が持てない(持たせてもらえない)、日本の過去も現在もよくわからないというのは、あまりに無責任だ(無責任と言うよりも「無防備」ですね)し、自分が選挙権のない子どもだったらそういう大人は嫌だと考えるのではないだろか(「嫌な」大人がいっぱいの日本ですね)。大学4年間の中で、自分が日本や世界の近現代史を知らないことや、一度は近現代史を振り返った方がいいと先生や先輩が話していたことの意味や、近現代史を振り返ることの必要性をやっと理解することができた。(自己理解のためなのです。)