ちいさな哲学者たちB5W41902 瀬島菜那
フランスの幼稚園で行われた哲学の授業のドキュメンタリー映画だった。
哲学の授業が幼稚園で行われたこと、幼稚園生があんなにしっかりと自分の意見を言うことができることに驚いた。日本の教育は、先生に従うことがいいことだと教えられ、自分で考えないようにする教育が行われているので、授業内で自分の意見を発表する授業がフランスで行われていることに驚いた。しかも幼稚園生がそれをやるというのにもびっくりした。あんなに小さな子供でも自分なりに考えることができると知り、自分が考えないことが当たり前だと考えていたこと、考えるのは難しいことで子供にはできないと思い込んでいたことに気付いた。気付いて、終わり。子供の話なので、自分にはもう過去のことなので、自分と関係ないと思い込んでいませんか。子供は考えることはできる、しかし自分はもう子供ではないので、考えなくでも良いのでしょう、と思ってませんか。
フランスで行われていた哲学のような考える授業は日本では全く行われていない。(そうだろうか?では椎野ゼミでは、何をやっているのでしょうか。考える授業ではないのでしょうか。それとも瀬島にとっては、こんなゼミでの授業では、考えるに値しないとご判断しているのでしょうか。)現代社会は何も考えず、上司に従っていれば評価が上がり昇進することができるような時代ではない。それなのに考えることが許されない授業ばかりでは、教育は実生活に役に立たないといわれてもおかしくないだろう。(国際学部の授業、私の授業も、このゼミも、「考えることがゆるされない授業、実生活に役に立たない授業なのでしょうか)それに、考えるための最低限の授業がないと、ひとによってかなり能力の差が開いてしまうように思う。(日本では、考える授業がないので、能力の差も開かないのでは?)日本の教育を変えなくてはいけないというのは多くの人が感じているだろうが、その改革の方向性が「英語を身に着ける」「文系学部を減らし理系に力を入れる」などで、考える力を伸ばそうとはしていない。(この授業もそうなのですか?)自分で考えることが必要だと思わない人が多いのだろう。(考える授業がないので、瀬島も考える必要がないと、思っているのですか?)自分が変だと思っていることを変だと思えず周りが正しいと思いこむと損をするのは自分だと思う。酷い労働環境を普通だと思い込み、環境改善に乗り出せず苦しいまま働いたりしているのは、知識がない、情報を得られないというのもそうだが、自分で考えられなくなっており周りが正しいと思い込んでいるからだと思う。何も考えていない人を思い通りにしようとする人から自分を守るためには、自分で考えられるようにならないといけないだろう。日本でも、自分で考える人が増えたり、哲学の授業が行われてほしい。(この授業も、瀬島にとっては、考える授業ではないのですね。)何か、転倒した議論ですね、瀬島は自分で考えてないのは、考える授業がないからで、考える授業をやってほしい、ということで、自分が考えていないことを、正当化しているのですね。