孤独なツバメたち
B3W41102 蛭田一樹
一番衝撃的だったのは、(主語は?)中卒で工場勤務が当たり前だったことだ。エリートな移民(形容矛盾?)(移民の定義は?)は英才教育を受けて、大企業の有力な人材になっていくが、そうではない家庭に生まれてしまい、ろくな教育も受けられない(ということはどうゆうことを指しているのか)と、家庭と世間に振り回されてしまい、望まない生活に慣れていくしかない。この問題点として挙げられたのは、子どもの権利条約だ。(子どもの権利条約自体が問題点なのか?)日本の教育環境では、効力を発揮する人がいない。(条約の効力を発揮するのは、条約締結者でしょう。日本では、国会の承認を受けた後の「内閣」です。)教育者が黙っている(学校の先生が教えない?)ため、子どもたちはその権利すらしらず、名前は知っていても、どういうものかはわかっていない。日本の教育において、よく言われているのは、知識学習型の勉強だということだ。ここに(何が?)よく表れていると思う。数学や英語のような、文法・公式だけ覚えていてもどうにもならない科目は、使える(これはどうゆう意味なのか?)ようにすることを目標にしているが、社会や理科・国語に関しては教科科目の域から出ず、とりあえず年号と言葉を一致させたり(意味不明)、化学式をおぼえたり、文章を読めるようにしておいたりする程度(なんのための勉強なのか?)である。勉強ができない子は、「これが何の役に立つんですか」と問う(勉強のできる子は問わないのですか?)。一説には日本社会で一番投資して負債が少ない(意味不明)のは勉強だと言われることを考えると、勉強をすることで得られるのは、学歴なのである。(学歴社会での対応)勉強が何の役に立つかと問われれば、学歴づくりである。(資格社会の形成)勉強するという手段によって世の中で生きていくという目的が、勉強するという手段によって学歴を得るという目的にかわってしまっている。(なんのために学歴を得るのかの議論がない。)実生活とリンクしている教科内容はたくさんあるのに、とりあえず言葉だけ(意味不明)。言葉の意味については考えない(要説明)、それよりも教師は単元を進めることに執心している。そもそも日本語が話せない子は授業すらまともに受けることができない。(国語主義の国民教育の弊害)
こうした状況において、教育や、社会に出るチャンスからも排除されてしまっている彼ら(who?)だが、同じような友達を集めて楽しく踊っていた(ヒップホップダンス、であることの意味を考えましょう。)。日本人もまざっていて、彼ら(who?)にはなんの違いも見られなかった(要説明)。国と国の問題はいつまでも国と国の問題に収まる(意味不明)。私の周りにはブラジル日系人はいないため、そうした人々の言葉(ポルトガル語)を得ることはできないが、韓国人は日本人を好きだけど、日本政府は好きじゃないという(これも一つの見解、一般化できないよ)。日本の人との関係は好きだが、日本(国)との関係が嫌いなのだろうか。それでも日本政府を選ぶのは日本国民である(要説明)。また、国民レベルで他国の人を毛嫌いする人々がいる。xenophobia(外国人嫌悪)近代社会の前提です。結局日本で日本人以外を排斥しようとするのは(ヘイトスピーチ?)そうした人々がいるからなのだろうかと考えてGoogle検索をかけてみると、日本会議と日本青年協議会の話が出てきて、どうやらこの団体はナショナリズムとエスノセントリズムが強いということがわかる。そうした人々がバックについている安倍政権がほかの国民(移民?)の流入(受け入れ?)を好むはずはない。安倍政権に黙っている日本人が多いままでは、力を持っている人々(who?)が、日本会議の圧力に負けてしまう(現状)。まずは知らないという状態からの脱却、なんでそうなってしまうのかについての知識、当人たちの責任で終わらせない(要説明)思考ができたら彼らのために投票ができるのかなと考えた。要説明
全体として、説明不足の文章が多く、もっと丁寧に説明しないと、言いたいことが伝わらないよ。