苗木
この映画はイタリア・フランスの合作でつくられた、シチリア島から遠い島(リノーサ島)(どんな島ですか?を記述してください。)を舞台にした映画で、この映画を見て、イタリアの中でも北部と南部で貧富の差があることを学んだ。(はい、学びましょう。)
ディスカッションのなかで、私が(一家の息子)フィリッポの母親の立場だったら難民の母親に「この子の名前はあなたの名前」と言われて、自分の名前を付けさせるかという質問をされたときに、私はすぐにつけさせないという回答を出した(答えを出すことが、最も重要なことなのではなく、その答えの理由を自分なりに説明できることが最も重要なのです。)が、その理由を尋ねられたときに、答えは出たのに自分でも理由がよくわからなかったし、考えれば考えるほどに、自分の考えはとても冷たいのではないかと思った(なぜですか?「冷たい」ことはいけないことなのですか?)。そのあとに菊池(地)くんから「ひなだったら難民をどこまでたすける?」という質問をされて、実際に難民に会ったり、それを考えないといけない状況になったことがなかった(無意識に「会う」ことを回避し、考える状況なのに、考えなくても良い状況だと勝手に判断してしまっていませんか)ので、リアリティもなく、答えるのがとても難しく感じた(難しいことはしない、のですね。)。フィリッポの母親と同じ状況になったときに、難民の母親を助けたいと思う気持ちはあるし、出来る限りのことをしたいと思うが、自分の身を危険にさらしてまで助けるために行動するのは難しいだろう。(よくある日本人の答えですね。「同じ」状況になることは、現実的にないだろうし、気持ちだけはあるといい、「できる限りのことはする」と言いながら「できることは何もないので、何もしない、自分の身を危険にさらさない、という当然の前提を立てて、自己正当化に一生懸命になる、そして「難しい」ことは、しない。はい、立派な日本人ですね。)OGの方の話の中で、「私が今食べさせることができるのは3人」と言っているのを聞いて、金銭的に考えると、私は今自分の生活さえ自分で稼いでいないので、助けることはできないと思った(助けることのイメージが貧困ですね。おそらく自分が「助けられた」経験が多くないので、助けるイメージも豊かでないのでしょうね。)。私が就職をして安定した収入を得るようになったとして、その時に見ず知らずの人が助けを求めてきても、家に住まわせる選択はしないだろうし、私が助けられるのは警察であったり施設に連れて行くとかそこまでだろうなあと思った。この考えが冷たすぎるのか、国際学部生として悪いのかわからないが、(「冷たい」とか、「悪い」とか、自己非難に問題を還元してしまいますが、問題は、「難民」問題と聞いた時の状況設定の発想の貧困が問題なのではないでしょうか?)実際に日本に住んでいて自分の身に起こったら私は助けないということになるのかもしれない(結論は、「助けない」と極端な立場に自分を置いて、自己保身に一生懸命ですが、「助ける」のイメージをもっと豊かにすることも「助ける」ことなのですよ。)。でも日本に難民を受け入れることに反対なわけではない。考えるべきことがたくさんあることに気づいても、実際に私が何かをできるわけではない(難民問題に関して実際に「何か」をできる人など、多くはないし、「何をすればいいかわからない」というのが多くの人の現状だし、まずはその当たり前の現状を現状として認識できる人になりましょう。)なあと思い、難民問題の知識が増えてもまず何をすればいいのかわからない。(「知識」観を変える必要があるのではないでしょうか。増やすことが「知識」の目的でなく、自分が「する」ことに関連しているのが「知識」なのではないでしょうか?)