岡部さよ子
映画の舞台はシチリア海峡にあるペラージェ諸島のリノーサ島である。この島は、イタリア本土より北アフリカの方が距離は近く、近年アフリカ大陸から多くの難民がヨーロッパへの玄関口としてこの島やその隣のランペドゥーサ島を目指しており、島の近海で難民たちが乗った船の転覆・沈没事故が後を立たない。映画ではこのリノーサ島で漁師として生活することに限界を感じた家族が、漁の途中で助けたエチオピアからの難民(母子)を不法行為と知りながら家へ引き取る。リゾート地として観光客で賑わう島の華やかな面と、昼夜問わず難民(やその死体)が漂着する島のアフリカから最短距離のヨーロッパとしての現実が、映画では描かれている。
これまで難民というテーマに関連する映画を見続けてきたので、これまで住んでいた場所から他の安全な場所へ逃げる時、移動手段が徒歩しかないということは知っていた。しかし、ディスカッションで先生が「難民は自分の命の保証をしてくれる国を持っていない」と仰っていたのを聞いて、移動するのに歩くということは命がけで、危険で過酷ということが理解できた。(はい、「難民」とはまず「国籍国の保護を受けることができない者」のことなのです。)また、逃げることがそれほど危険でも、それより危険な、逃げす(ず)にはいられない状況があるということもわかった。はい。「難民」と一口に言ってしまうことは簡単だが、世界には国や国境があり、それを越えるにはパスポートや手続きが必要ななか、そんな余裕もなく逃げなくてはいけなくなった人たちには、自分が暮らしていた国からも、行く先でも、命の保証がされない状況が、難民が面しているものである。(国籍のある、パスポートのある国家による人権の保障の第一は、国民の「生命と自由」の確保なのです。)日本で日本国民としてパスポートを取得することはとても簡単だし、日本国民ということでビザがなくても入国することができる(帰国は、人権の保障されている国民の権利なのです)。世界には国や国境があり、どこかの国の国民であることは基本的にその国から国民として命の保証をされることだという根本的なことを、難民について考える時に見落としていたことに気づいた。はい、どっかの国の総理大臣も「国家は、国民の生命と自由と財産を守る義務がある」とよく言っていますね。
また、難民の母親が自分の息子と母語で話している時にやっと「難民」ではなく「母親」として認識することができたことについて、母親は海で助けてもらった後出産をしているのに、なぜその時(またはそれ以前に)彼女のことを「母親」や「女性」と思うことができなかったのかと疑問に思った。おそらく、溺れかけていて見た目が弱々しかったことや、たどたどしい言葉が、私の中の「難民像」に共通するところがあり、難民としてしか認識することができなかったのだろう。「女性」という点で共通点を感じているにもかかわらず、そのことにすぐ気づけなかった自分の難民に対する見方を自覚した。はい、「難民」カテゴリーを抽象的に理解して終わりではなく、「難民」カテゴリーの背後には「女性」や「母親」という生身の人間が生きていることを、想像できるように(社会学ではこのことを「社会学的想像力」と言っています)映画を見ながら、練習しましょう。
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Sayoko Okabe
Faculty of International Studies,
Bunkyo University,
Chigasaki, JAPAN
b3w41036@shonan.bunkyo.ac.jp
海と大陸
|岡部 さよ子