苗木
この映画は、2007年にフランスの公立の幼稚園に通う子供たちが哲学を学ぶ話だ。
3、4歳の子供が「リーダーとは?」「死とは?」「愛とは?」というテーマの中でそれぞれの子が違う意見を言えることに驚いた。もし私が幼稚園児の時に同じことを問われても何も発言できないのではないかと思う(フランスの幼稚園児も同じですよ)し、誰かが言ったことに対して、そうかと納得して賛成するだけ(「納得」とか「賛成」とは、なんだろう。前に配布したプリントで、「ものを考えさせない」ようにさせる装置なのではないでしょうか。つまりその前後でものを考えていないことを隠す装置なのではないでしょうか)だろうと思った。この映画の幼稚園児は、何が違うのかを考えてみませんか。
親が家で授業の準備をすると言っていたように、幼稚園の中だけでなく、家でも会話を深く掘り下げて質問し、答えさせることで考える力がついていくのだろう。家でも親が教育しているのです。「家庭教育」という言葉が日本語にもありますが、言葉があるだけですね。
日本では、幼稚園の頃に哲学を学ぶことはなく、自分で手を上げなければさされて発言せ(さ)せられることも少ないように感じる。発言しないこと=考えないこと、を日本では幼稚園から学んでいるのでしょう。また、幼稚園などでは、人と違う意見を持っていてもいいというよりは、「いいこと」と「悪いこと」をみんなで同じものをさすようにさせているのではないだろうか。はい、「みんなで同じ」を教育目標にして、実行して、皆はその優等生になって、次の学年になっていきます。
ゼミの中で、今の学生は考えられない、疑問を持てないと言われるように、自分自身もそう感じることが多々あるし(日本の教育のたまものですね。立派な日本人です。)、それは、大人になるにつれて先入観を持たずには物事を考えられないという理由もあるだろうが(先入観さえ持っていないのではないか)、日本でこの映画のような教育ではなく、個性というより協調性があるように教育しているからなのだろうと感じた。はい、「和を以て尊しと為す」聖徳太子の教えをよく守っている日本人になってますね。でも「日本人」ってフィクションなので、実際に生きている人ではないのですよ。苗木は、教育によって「立派な日本人」になってますが、「生きている人」ではなくなっているのではないでしょうか。
幼稚園で哲学を学んだ子供たちが小学校に入り、哲学を学んでいない子供たちと一緒になったときに、物事の考え方が違うと思うので、お互いにどう影響するのかが気になった。いずれ、小学校を卒業したら、全員、「哲学」を学ぶことになるのですよ。(日本では、学びませんが。)それに日本の小学校のように、人と違ったら、差別される、という教育空間ではないので、ものの考え方が全員違うのが当然なので、その点で、特別な影響があるわけではありません。優等生の日本人には、想定外でしょうが。