岡部さよ子
フランス・パリ近郊の教育優先地区(ZEP)のある幼稚園で、2007年から2年間、3〜4歳の園児たちを対象に「哲学の時間」が設けられた。月に2、3回園児たちは限られた時間(10-45分)の中で、「愛ってなに?」「大人と子どもの違いは?」というような様々なテーマについて考え話し、他の子どもたちの話を聞くことをしてきた。ここでの「哲学」とは、考えること、人の話を聞くこと、考えを口にすること(話すこと)、話しあうこと、学ぶこと、生きる知恵を求めることなのです。この映画は、幼稚園児と哲学をするというフランス初の試みを、園児たちの親の許可を得てドキュメンタリーとして2010年に製作された。
「子どもに哲学ができるのか」という考えには、哲学は難解・複雑であり、子どもは未熟で難しいことは理解できないという前提がある。しかし、映画の中で園児たちは自分たちにとって身近で、話せるテーマで哲学をしていた。日本語の「哲学」とは、philosophyからの造語日本語です。philo=愛する、sophy=知で、philosophy(愛智)を、はじめ「希哲学」(賢哲を希求する学)と訳したが、のちに「哲学」と表記されたのです。ここで「知」を取り巻く動詞(愛するや、求める)が無視され、「哲学」=哲い(さとい)学=賢哲の学となり、賢人や哲人の学として、「賢い人や優れた人」の学となってしまい、誰でもできる「根本原理を追求する学び」ではなくなってしまったのが日本語なのでしょう。園児たちは回数を重ねることによって、自分たちの身の回りのことについて考え話すことができるようになっていった。最初、「子どものための哲学」というものがどういうものがよく想像がつかなかったが、「子どものための」哲学とは、社会に生きる人間の一員としての子どもが、自分のいる社会(=身の回り)のことについて哲学するということであり、それは社会の構成員である限り不可能なことではないのではないかと考えた。はい、なんらかの「社会」と関わる側面があることが特徴ですね。フランス共和国の「社会」とは、国旗=三色旗(トリコロール)(赤・青・白)がその意味を表しています。「自由・平等・友愛」の社会なのです。これに対して、日本語の「社会」とは、単に「人の集まり」のことであり、社会理念がありません。日本語で「社会の構成員」と言っても、「和を以て貴しと為す」調「和」を理念としているだけではないでしょうか。
また「哲学」には、頭のいい人が難解な事柄について複雑に考えるだけのものではなく、「子どものための」哲学というように、他の人(?ある人?)(立場)のための哲学があるのだということに気づいた。自分が社会の中にどのように存在するか、自分をどこに位置付けるかによって考えるテーマは変わるし(はい、そうですね)、それによって誰のための哲学かも変わるだろう。
「哲学」というと、日本では「難解」とか「堅い」というイメージがつきがちで、高校でも必修科目ではないことが多い。日本における「哲学=難解なもの」というイメージが、哲学を自分に関係ないものと思わせてしまっている。はい。自分の身の回りについて考える、「自分のための哲学」が必要ではないだろうか。はい、そうですね。自分の身の回りについて考えることは、自分が社会の中で生きていることを自覚することでもある。はい。
また映画を見ていて、自分が自分を子どもだと思っていなかった頃(good point)のことを思い出した。周りの大人(親や祖父母、親戚や先生など)からは「まだ⚪︎⚪︎歳」とか「子ども」とか思われていても、当時は自分ではそんなに「⚪︎⚪︎歳であること」を気にしておらず、それを意識して考えたり行動したりすることもなかった。大人から見た「子ども」と、子ども自身が思う自分には結構違いがあるということに改めて気づいた。そうですね。
また、人間扱いされていないのは子どもだけでなく大人も同じということに気づいた。子どもには「子どもだから」できないことがあり、大人には「大人だから」できることがある。日本ではどんな大人にするかということを考えて教育をするというよりも、「大人(成人)はこれができて当然」ということ(中身ではなく、「和を以て貴しと為す」とできるのが大人)がまずあり、そこから逆算して教育をするため、小中学校でもとにかく進級・卒業・進路を決めることなど「先に進むこと」が重要視され、(落第のない学年主義が、日本の教育を蝕んでいます。)学んだことを理解しているかはそれに比べて軽視されている。そのようにしても大学まで行けてしまうということは、そこまで学んでこなくても大丈夫なように学校ができてしまっているということ(そうですね。)でもあり、また生徒が学ぶには時間が足りない(先に進むことが優先されるので時間をかけていられない)こと、教員の力量不足や教員の役割として「生徒が学べるようにすること」が求められていないことがあるだろう。日本の教育は、形骸化の程度が素晴らしいですね。