岡部
この映画は、岡崎京子の同名漫画を原作として蜷川実花が実写映画化し、2012年に公開されたものである。眼球と爪と耳と性器を除いた全身に整形を施しモデルとして活動するりりこが、その副作用と芸能界でのストレスなどに心身ともに蝕まれていく様子(とりりこのある種の復活)が描かれている。
プリクラに並んで加工できる目の大きさを選ぶ女子高生や、書店に並ぶ大量のファッション誌など、目紛しく変わる流行を追う若い女性たちを批判的に(?)切り取っていると思えるようなシーンが映画の冒頭から度々あったが、登場する女性の描き方は特に目新しいものでもなかった。原作は、1990年前後の日本の女性の精神状況を表現しているのでしょう。(21世紀になって日本の女性の状況はまた、変化してしまったのでしょう。)全身整形前のりりこの面影を持つ妹の配役には、「『ブサイク』な顔といえばこういう顔」というような作り手側の安易なイメージを感じ、とても不快だった。りりこのマネージャー役の女性も「中年のパッとしない女性」として描き、また見世物小屋でモデルが撮影の打ち上げをするシーンも、「容姿がいいから楽しめる」ということも含めてモデルたちが見世物小屋を楽しんでいるようで気持ちが悪かった。(カルト映画の「フリークス」やフェリーニおよび寺山修司に出てくる見世物の人たちは、気持ち悪くないですね。)若くない、可愛くない、整っていないなど、ファッション誌的な美しさから外れるものも描き方がこの映画では安易で稚拙で無神経であり、そうした限られた文脈の中で成立する「美しさ」を押し付けているように思った。80年代の女性たちのあり方が、21世紀においては、対象化されてしまっているのでしょう。
蜷川実花は写真や映像で女性を被写体にすることが多く、映画を見た直後は映画のなかの若い女性の批判的な切り取り方などから、「男性からではなく女性から見たかわいさ」のようなものをテーマにしているのかと考えた。しかしディスカッションを通しておそらくそうではなく、男性が見た女性のかわいさや美しさを内面化し、それを「女性から見たかわいさ」としてテーマにしているのではないかと思った。はい、そうですね。男性中心社会日本の男性の視点を内面化した消費社会の日本の女性の表現なのでしょうね。
「ヘルタースケルター」の原作が、作者が交通事故にあったことから未完であるとは知らなかった。to be continuedではあるが、未完でもないのです。岡崎京子や彼女の作品についてのウィキペディアを見ると、彼女の漫画では若い女性が主人公であることが多いこと、彼女の漫画表現を考察する本などが出ていることがわかった。例えば、「1549夜『ヘルタースケルター』岡崎京子|松岡正剛の千夜千冊」http://1000ya.isis.ne.jp/1549.html を読んでみてください。男性の視点を払拭はしていませんが、いろいろ参考になるでしょう。映画では蜷川の感覚的な解釈に基づいて、女性が男性に消費される女性として自覚的には描かれていなかったが、漫画ではどうだったのだろうか。また、岡崎の漫画では整形や売春などが取り上げられることが多く、どのような意図でそれらを取り上げていたのだろうか。21世紀の時代ではなく、80年代の現れたままの現象の表現なのでしょう。岡崎が若い女性の何を描こうとしていたのかが気になった。皆さんが生まれる前、つまり皆さんの親たちが、親になる前の時代である80年代の日本とは、どんな時代だったのかをまずは考えてみませんか。