サンバ
B3w41102 蛭田一樹
題名とここで主人公が繰り広げる物語はすごくリンクしている。「サンバ」のとおり、前に進んではいるけれど、作中の音楽に合わせて踊らされている。移民として移り住んだはいいが、ビザが失効、国外退去を命じられる。移民として、半ば永住するためにフランスで暮らしているのに追い出されることもあるのかと、なんだか腑に落ちない気持ちだった。ビザがどのような制度であるのかをまずは理解してください。
印象的だったのは、最後にIDや身分、自分は何なのかといったセリフだ。以下、一般論的な自他論を展開するのではなく、映画のコメントとして、映画の物語に沿って、ID論を、展開してください。抽象的・観念論的な自他論ではない、現実的な・現代的なID論において、理解することがたくさんあると思います。それが映画を見るということなのです。移民問題を、文脈に入れた時、以下のような「自他論」の無意味さを、考えることが、重要なのです。移民問題とは、そのような問題なのです。自分を考えように?したときに、他人と比較した自分をよくするべきなのか、誰でもない自分が満足する自分になるべきなのか、ということは僕の中でも大きな疑問である。いくら自分が満足できるように周りよりも「いい自分」になったところで、自分が無理をしていたら難しいだろうし、その逆で自分が満足したところで、まわりがそれを認めていなかったら、なにも変化していないことになるだろう。それでも私は最近、「善意のオ●ニー」と称して、他人のために、自分が満足できるようなことをするようにしている。塾講師として、夏期講習で請け負う生徒たちの個票を小冊子にしてまとめ、その生徒たちと今後何を勉強していくかを毎授業一緒に確認するようにしている。そうすることで生徒一人一人が次は宿題をどうこなしていけばいいかといった点や、これまで何を勉強してきたのかを確認しやすくしている。また、先日外食したときに、財布が落ちていた。おそらくこの場で私が持って行っても何も言われないだろうが、とりあえずその人が困るだろうなと思い、店員さんに渡した。こうした活動をすることで、自分は気持ち良くなるし、もしかしたら、それで助かった人も気持ち良くなるかもしれない。もちろんこれは他人があまりやらないと思えるから満足できるもので、他人と比較した自分ではある。これが自分らしいと思ってしまうのは、尚早だし、ほかにもやっている人はいるであろうから、没個性となってしまうともいえなくはない。私自身もっと変われるところはあるはずだから、そういったところを気づくたびに直していきたいなとも思うが、それを「変わる」と表現するのもこれまでの「自分」を否定していく作業なのだから、自分は今以外にどこにいるのかもわからなくなってしまう。「自分」がその失敗をしたから直したといっても、現在の自分までの過去からの長い軌跡を自分だといったら、否定では無くなってしまう。こうしたスパイラルに巻き込まれると、飛ぶ矢の静止画を思いだす。一枚一枚は止まっているのに、絶えず前に進んでいる。飛んでいる矢を一枚一枚並べると、飛んでいる場所も違うし、空気圧で矢のしなり具合も変わり、羽根の向きも変わる。矢そのものは同じだが、その時その時で変化している。自分を一コマ一コマで比較しても、それは今の自分とは異なるわけだし、体系的にみても比較規準を持てないわけで、比べられないし、体系的にみられるのは一定期間私と付き合っていた人だけだろうし、という「自分」がまっとうになるためのほう穂?を考えていたとき、スーツのベルトを忘れていることに気付き、まだまだだな、と感じた。