カンダハール
B3w41102 蛭田一樹
人(日本人?)の無関心を穿つ映画というものは椎野ゼミで上映した「圧殺の海」もあったが、今回の映画も、知っているけどどういう実態になっているかわからないという私に、大きな音で訴えてきた。勝手に理由をつけているだけなのは重々承知しているが、こうした人々がいると知った段階で、助けに行ったり、もっと知らせていきたいと思ったりする。けれど、実際には現地に赴くことなんて無理だし、危険だからと止められるだろうし、なにより、思い付きでそんなところに行って君は何ができるのといわれてしまう。それでも、これを一つの知識として私のうちに秘めておくのはとてももったいないと感じる。(2001年のアフガンを知ったなら、次は、現在のアフガンがどうなっているのかを調べましょう。)(また、2001年のアフガンの「こうした人々」とは、どうゆう人々なのかを、詳しく述べることができるようになりましょう。抽象的に「こうした人々」ですますのでなく、詳述できるようになるためには、相当に自分の頭の整理をしなければなりません。)世の中の無関心を穿った映画を見ると、私は巻き込まれやすい質なので、どうにかしたいと感じることがある。(これまでその時、そう感じた、で終わってませんか?)それでも私ができることは微々たることだろうし、微々たるものに満ちるものを実現できるかもわかりません。(「微々たること」でもやれば良いではないですか。「微々」」だからやらない、という結論が先にありませんか?)(フリーランサーの戦場カメラマンになって各地の状況を見せようにも、こんな気まぐれいつまで続くかわからないし(戦場カメラマンを「バカ」にしてませんか?)、それを副業としてやっていくには、本業すぎてしまうと思う。(まずは、自分の「本業」のことを考えてください。)知っているにとどまるものでもいいのかどうか、それが今カンダハールを見て大きく心にのこったことである。「知」には、知1、知2、知3、・・・知nがありますが、知1で知ったかぶれをしている自分がいませんか?
義足が落ちてくるシーンはとても衝撃的で、そんな簡単に足に着けられるのかとも思う。内戦紛争状態の「国家」の状態について、全く想像力がありませんね。義足を得る手段として、日本にいると、医者の処方箋から手術を行い、足に取り付けるまでがその過程だと思っていたから、あそこまで簡単に手に入ってしまう(簡単ではないですよ、数年待ちの状態ですよ。)ところに素直に驚いた。また、そんなに簡単に取り付けられるものなのか(カスタマイズするわけでなく、物理的にサイズの合わない義足があるだけで、幸運なのです。)とも思う。足を吹き飛ばされてすぐに救急車が来て、手厚い治療をしてくれるわけでもない。ろくな食料や水分もなく、自然治癒に任せるのはとても危険なことだと思う。地雷で足が飛ばされてしまっても何もない国(国家の体をなしていない「国家」なのですよ。)と、地雷もないのに平和を望める日本との大きな違いは、カンダハールまでの道のりのあらゆるものを非日常として映し出す。この映像は非日常ではない、彼らの日常である、と思うようにしてもなかなか難儀であった。(平和ボケの日本が、内戦紛争状態の実情を想像できなくなってしまっているのですね。)しかし日本の平和(日本は平和ですか?)も戦争の歴史の上に出来上がり、アメリカの核の傘の下に存在していることを忘れてはいけないのだと思う。(「平和」観が、国際学部生としては「常識」的ですね。)今日8月9日は長崎に原子爆弾が落とされた日である。世界で初めて原子爆弾が落とされた場所(ヒロシマです。)として、果たさなければならない役割はたくさんある。これからアメリカは首相(???アメリカ合衆国に「首相」はいませんよ、大丈夫ですか)が変わり、日本との関係が変わっていくかもしれない。そうすると、周りの国から圧力をかけられるようなこともあるのだろうか、日本が戦地になって、現在の「平和」がなくなり、五体不満足になることもあるのかもしれない。(あまりにも簡単に日本が「戦場」になってしまうのですね)それ以前にできることをたくさん想像できるようにしておかないと、「日本国」の思う壺ですね。)日本のこれからを考えるという点で、アフガンのタリバン政権に対する無関心が穿たれたことで、自分が日本でできることを見つけられたように思う。見つけられた「できること」について、詳しく説明してください。