パリ20区、僕たちのクラス
B3w41120 蛭田一樹
フランスは移民の国であることは以前読んだ本から学んでいるが、フランスが彼らにしてあげたこと(これはなんですか?)に疑問を持った。おそらく、これ(何を指示してますか?)を疑問に持ってほしいような問題なのだろう。「先生」が「生徒」に対して、学びに来ているから教えるという、師と弟子の構図は教える方法に適していないことを時代が物語っている。はい。学校自体がシステムの変革を迫られている。はい。教える方法は教壇にたっておしゃべりをするだけではない。はい。だが、システムを変えたところで先生がアップデートされないのでは意味がない。(日本のことを言っているのですか?そうではないのですか?)おそらくこの映画の舞台も、生徒に発言する機会をたくさん持たせて、生徒主体で授業を進めていくというアクティブラーニングの形式をとっているのだと思う。(日本での流行語「アクティブ・ラーニング」が意味不明です。日本ではテクニック論になってしまっている感が強いです。)このパリの教室で起こっていることは、「アクティブ・ラーニング」技術論の開示ではないのです。「移民」一人ひとりを「移民」として十把一絡げにしていませんか?「でもその実は、生徒の考えが(?を?)発表できる場を支援してあげるのではなく(それをやっているのではないのですか?)、生徒に発言させて、取り急ぎその場(意味不明)を作ってあげるという場になってしまっている。その場って、発表(表現)する場ではないのですか?「先生」が「先生」から卒業できる日は来るのだろうか。(括弧付きの「先生」とは何ですか?)私の教育実習先は、アクティブラーニングを採っていた(技術論としてのALですね。)から、塾に行っている子の発言は多めとはいえある程度生徒たち主体で授業が進んでいた。1年生のころから訓練していた生徒たちだったようなので、2年生になってからもその形態で頑張っているらしい。(ALがその場の頑張りになってしまっていませんか?)ただ、ほかの学校では、例えば進学校と呼ばれるところでは、どうしても旧来の授業だし、普通の学校でもそのようなことは往々にして起きていたらしかった。日本ではモデル校ぐらいでしか実行していません。フランスでは、どの学校・教室でも行っているのです。日本のアップデートされない先生たちは、先生と生徒の間に上下関係があると思っているらしい。(儒教的な先生・生徒観ですね。)私の塾でもそれは見られることが多く、「いいかい?」から話が始まる先生はたいてい自分が生徒に教えられると思っている。一対一であろうが一対複数であろうが、教えられたからと言ってそこですぐ理解出来たら苦労しない。知識はツールではなく、会得するものだから、何度も練習することで身についていく。(これは旧態依然の教育論ではないか?)それを理解しないで、「教えたじゃん」の一点張りでどうにかなる話ではない。(移民とずっと向き合っていたフランスがなかなか教室を作れないのである(意味不明)。これ(これ、とは、何を見せるのですか?)を日本で現役の先生たちに見せたらどのような反応を示すのだろうか。「危険だからまだやめておいたほうがいい」と委縮してしまうのだろう。教えることも、移民を入れること(在日問題)も、もう限界(意味不明)なのだからいい加減対応策を考えてほしい。(誰に頼んでいるのですか?)国を担うということはそうした責任を負うということではないのか。(国を担う、とはなにか?)しかし政権公約にない以上、そういうことはむずかしいのだろうか。(「教育改革」はいつもありますよ。)私たちの身の回りに増える外国人たちと溝が大きくなる一方のような気もする。(意味不明)
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