ものすごくうるさくてありえないほど近い
B3w41102 蛭田一樹
この映画はどんでん返しがこれまで見た映画の中で一番大きかった。まさかこんな展開をするなんて、という素人並みの感想が出てしまうほどだ。この試写会が行われたとき、母親に共感した人が多いという意見が多かった。これはあまり参考にならない意見だが、それでも考える材料にはなると思う。この少年の母は、少年の知らないところで少年が危険な目に合わないようにたくさん根回しを行っていた。さすがに母親自身でさえ鍵(の正体)を見つけられるとは思っていなかったようだが。日本社会のカップルたちも、いろんなことを相手のために(この「相手」とは誰?)実行していると思い込んでいる節があるということだろうか。(この母親の父親のための思いを描いた映画ではないでしょうう。)アメリカ社会と日本社会の男性の付き合い方(誰と、女性との?)の傾向を調べてみると、(個人的に)面白いことが分かった。
アメリカ社会は(それほど一般化できませんが。)付き合うまでのプロセスとして、様々な女性とデートに行き、フィーリングで相性を確かめた上で付き合うかそうでないかを決める。付き合うまでに仲を深められるため、付き合ったら結婚まで考えられるらしい。(アメリカにおける「付き合う」の意味が不明です。)それに対して、日本社会は付き合う段階に行く時点でまず一人に絞らなくてはいけない。(日本においては「付き合う」が儀式化しています。)そして付き合ったら相性が分かるのかというと、(「相性」がマジックワードですね。)まだまだである。しばらくはお互いに探り探りで、デートやお出かけをする。プラトニックを超えた段階(儀式においてどんな段階なのか?)で合うとか合わないとかアウトだなとかそういったことが分かってくる。物事に例えると、日本社会は、いい実がなりそうな木を果樹園から選んで買い、収穫の時期を待つ。いい実が成らないからとその木を買い替えるなどすれば、「やり捨て」や「ゆきずり」とまわりの人間たちから揶揄されてしまう。どんな実が成ってもそこまで経験がなければ良くも悪くもそれで満足しておこうという気持ちにもなるだろう。アメリカ社会は毎週果樹園に通い、どんな実が成るのか、育ち具合を見て他と比べいい実が成るのか、購入するまでじっくり見る。といったところだろうか。そうまですればいい付き合いができそうだなと思う。(こうした「付き合い」観を、女性はどう思うのだろうか。男性の付き合い方、と男女有別で考えているあたりが、お寒い日本的かな?)
基本的に恋愛は欧米から持ち込まれた文化であるから、恋愛は日本人にとって、愛があるから付き合うという思い込みになるのではないか。「愛があるから付き合う」ではなく、「愛を求めて付き合う」の間違いだろう。多少の付き合いでこの先持っていなくてはならない愛を育むなんて無理だろう。そういう点で、以前椎野先生が言っていた、「付き合う相手も大事」というのはパートナーに限らず、ちゃんと相手も落ち着いて自分を見てくれるのか、自分も落ち着いて相手を見ていけるかということでもあるだろうと思う。日本では「愛」がマジックタームであることを、まずは理解することが大切です。「愛」がなんだか分かっていると思っている人は、要注意人物ですよ。
以上の点より、日本人が言う「相手を大切にしようと思った」という言葉は、「私/俺がこれだけ尽くしているのだから相手も尽くしていると思うようにしよう」という言葉に言い換えられるのだと思います。(「大切」が、「尽くす」にすり替わるところに日本の「愛」のトリックがあるのですね。)愛について考え直せました。現状結婚という考えから自分はとても遠いということもわかりました。「結婚」という考えに、近づきたいのですか?「ものすごくうるさくてありえないほど近い」結婚について考えたいのですか?
映画のコメントを書いて欲しいです。