私に会うまでの1600キロ
蛭田一樹
私の親世代がこの主人公にあたる。いわゆる「団塊の世代」ジュニアの世代ですね。日本と欧米のこの世代の大きな違いは、欧米ではこの映画にも描かれているように、フェミニストを自称する女性を生み出したのであり、日本ではそうした女性を生み出さなかったことです。その結果、日本の女性は、性別役割分業的「女性」観を体現し、その役割を遂行するのが「女性」だと考えしかできなくなりました。この年代は親というものに大きくコンプレックスのようなものを抱えている姿が、私の母親を通してみることができる。(「親」と言っても、ここでの「親」とは、戦後日本の「性別役割分業」的母親のことであり、普遍的「親」を意味していないのです。この人工的な「性別役割分業」的母親の理念が、現実の「母親」に違和感を生じさせるのだが、フェミニストのいない日本女性には、自己嫌悪しかないのです。)かつて私が「両親を尊敬できる。」といったところ、母親は「親を尊敬できるって気持ちがわからない。」といった。(母親にとって、「親」とは役割のことであり、尊敬の対象にはならないとの認識なのでしょうう。)親との距離感(意味不明)はそんなに難しいものなのかなと思っていたが、一方では、「母親らしいことをしたい」、「ご飯を作ってみんなの帰りを待っていたい」と言っていたこともある。(性別役割分業的母親が母親なのです。それしか知らないのです。)「母親」が何であるのか、それをきちんと学びながら成長した証拠だ、とても立派だと思う。(きちんと学んでいるのではなく、「性別役割分業」的母親、しか知らないし、それを実行しているだけなのです。)そんな親だから、私が赤い塗り箸を買って使い始めたところ、いささか「女らしい」趣味だと感じたのか、慎重に、「そういう趣味もあるの?」と訝しんでいた。(性別役割の男女観しか持っていません。)確かに塗り箸の色は性別を分けかねない色味なのはわかる(わかる必要はありません)が、それだけで判断できるものなの?とも思う。性別役割を否定される行為は、小さなものでも、反対するのです。
話は戻って、その世代は、フェミニストになった女性は、親のことを一つの参考ではなく、「親」を倒すところまでが(「親」の再生産ではない家族を構築すること)家族なのだと思う。「家族」のなかの役割をしっかり担うことができるように、母親なり父親の姿を見ながら育ち、最後には親を超えた存在になっていけるように心がける。(これは、アメリカの「団塊の世代」のメンタリティです。)映画の主人公は、次の世代です。日本の親のメンタリティは、2世代時代がずれています。)自分の子どもを塾に通わせたり、積極的に自分を子どもに投影したりしようとするのも、親として倒されたい(意味不明)からなのだろうか。いささか飛躍している部分もある論法だ。この映画の主人公も、親という壁を自ら設定して、超えられないし、死んでしまったから「悪い子」になってみて、逃げる。目が覚めて、超えるために頑張ってみるというお話だったように思う(そうではないでしょう。この主人公の母は、DV夫から離れて、シングルマザーをやっている母親であり、皆さんにとっては「おばあさん」の世代がそのような「母親」を実行しているのです。)(そのようなシングルマザーを母として持つ主人公が、性別役割分業的母親でない母親のロールモデルを、自分の母親に見出させないことを自覚するためのロードムービーだったのです。)。私自身はどうだろうか。超えようという考えそのものがないが、(日本では、「性別役割分業」的な男女観しかなく、その中で生活しているだけなのです。)漠然とした上昇志向を求められている。先生にならないと言ったことで家族全体に残念な感じが広がってしまったことは、ちょっと笑ってしまった。(息子が「性別役割分業」的男女になることを拒否したのです。親とてはパニックです)先生になることが(男として)、「いい社会人」ならばこんなに犯罪も事故も起きるはずがない。いい人間になるためには、周りをよく見ることが大事だ。(いや、大事なのは、性別役割分業的男女にならないことです)なんとなく安定しているから、なんとなくよさそうだから、で選んだ教師職のほうが、多少選んで決めた企業の方よりもいいと思っているあたり親の経験と想像力はうまくリンクしていないのではないかと感じる。(残念ながら、日本の親ですね。)こうした発言は「親を倒す」ことにもなりかねないので、付け加えるとこれは「親を倒す」のではなく、「保護者からの卒業」ということだ。(両親的「親」を否定するのはまだ怖いのですね。)私をかこっていた保護者の考えで動くのではなく、今度は自分で考えて動くのである。「保護者」はなかなか、卒業させてくれませんよ。「保護者からの卒業」という発想が、保護者に執着することになるかもしれません。