アナと雪の女王
B3W41102 蛭田一樹
この物語で議論のテーマのひとつになっていたのは、「真実の愛」だった。日本語にとどまっているから、「真実」と「愛」に現実味がなくて、先に進めないのだろうと思ったら、英語の吹き替えでも”true love”だった。僕はこの言葉に2つの意味を見出した(と思う)。「真実」は「本当の現実」という、実際に起きていること。嘘偽りなく、「愛している」。これがどうゆうことかを説明しないと、単なるトートロジーに過ぎない。もしくは、本当ではないから嘘にならないよう努力することの二つの意味があるのではないかと思う。(意味不明。本当ではない愛を、嘘でなくすための努力。?。これでは、真実の愛はないを前提として、真実ではない愛を、愛として努力することになってしまう。)どうも「愛」でなく、愛もどきを「努力」することを「愛」としている日本っぽいですね。日本社会は「努力すること」が好きな気がする。努力すれば美談として、道徳の教科書で扱われることが多い。はい。もちろん努力に意味がないということを言いたいわけではない。(日本には、やはり「愛」はないのですね。)欧米人にとっての真実は、真実は真実なのだから揺るがしようがないという、前者のような(意味不明)、結果として後からついてくる(意味不明)パターンだと思う。(意味不明)だからエルサ以外の男たちは「真実の愛」ではないから、効果が表れない。一方、エルサは「真実の愛」だったから効果があらわれる。(映画では「真実の愛」の定義がなされており、「自分のことよりも相手のことを思いやること」としております。まずはこのことを理解してください。)だが、こうして考えると一つ疑問が生まれる。愛があるとするならば、それは真実か嘘の二つしかないのか。(はい、映画では、そうしています。)愛していて、相手を大切にするような行動をしているパターンと、愛していなくても、何かしらの理由で相手を大切にするような行動をしているパターンに違いはないのではないか。(いやいや、(真実の)「愛」の定義が、「愛」=自分より相手を大切にすることなのであり、この後者(愛してなく、相手を大切にする)は成立しないのです。後者は「愛」の物語でなく、「嘘」の愛でしょう。)心があって、それがすべての根拠になるわけではないから、つまり外面に表出する行動で相手を判断することしかできないのだから、愛されているとする側が愛されていると、どのような判断基準でも実感すれば、それは「真実の愛」になると思う。(いやいや、愛=主観ではなく、上記の「愛」の定義が、愛なのです。)愛されていると感じればそれが「愛」になるのは、日本での「愛」であり、この映画での「愛」の定義ではありません。映画の「愛」は、愛されているその「愛」が、私を大切にしている愛であるかどうかが「真実の愛」の基準なのです。この私が考えた(稚拙な)論法で「Frozen」もとい「アナと雪の女王」の愛を考えると、アナの氷が解けた理由は、エルサによるものだ。(はい、そうです。エルサは、「真実の愛」を理解することで、魔法の力(雪を溶かす)を発揮できたのです。)この間アナは何も見えていないはずである。アナが認めなければ真実な愛にならないはずなのに当のアナは氷漬けである。(アナは、ハンスの「愛」が真実の愛でないことを理解しただけで、自分にとって自分がやる「真実の愛」を、まだ理解できていないのでは。)何を言ったところでファンタジー(ファンタジーには「論理」があることを理解し、その論理を解明するのがコメントなのです。)だが、人が作ったものだからその人が伝えたい事があるはずだ。はい。愛は愛で、不動だということだろうか。(いいえ、この映画での「愛」の定義を、まずは理解してください。)本人たちの意志は介在せず、真実の愛ということである(いいえ)。私の乏しい宗教観で考えれば、その愛は神に認められうるものか、というメッセージかと思う。(はい、その内実は、神の愛(アガペ)は、人間を思っているのであり、同様に人間同士の愛(フィロス、ここではエロス)は、相手を思うのが真実の愛、というのがキリスト教的「愛」なのです。)日本社会の人々はそこまで考えてみていない、むしろ受け身で、展開に乗せられて、感動しました程度の人が多いと聞いた。(日本のコメントは、良かった、という意味だけで、何故なのかを探求しませんね。)もちろん外国だからしっかり見ているかというとまたそれは別の話だと思う。なんだか日本社会のこの映画を称賛した人々は、漠然と「真実の愛」的な揺るがない自分への思いをイメージしているように思う。ロマンティック・ラブに浸っているだけでしょう。それは愛がほしいのではなく、自分が相手を信じていないだけなのでは?と思う。愛の「相補性」が成立していませんね。