私に会うまでの1600キロ
B5W41902 瀬島菜那
母が亡くなったことで、自堕落な生活を送っていた女性(1945年生まれの母を持つ1968年生まれの女性です。)が、数カ月にわたるハイキングに出る話である。(1990年代の話です。)この物語を「小説」「映画」にするまで、さらに20年の時間が流れています。時代背景、社会背景、歴史背景を理解できるようになりましょう。
元のタイトルの「Wild」は、「私に会うまでの1600キロ」という日本語のタイトルに変更されている。「Wild」という言葉の意味が、日本では「野生の」という意味がよくつかわれていて、原題のままではないほうがいいと判断されたみたいだ。原題と日本語のタイトルが違っている理由を考える、ということが映画を見る視点の一つになるということが分かった。はい、なぜ、そのような邦題になったのかを考えてみましょう。
「私に会うまでの1600キロ」の「私に会うまでの」というのは、母親が誇りに思ってくれる「私」から、自分が誇りに思える「私」になる、という意味だったのではないかという意見がゼミでは出た。この「自分が誇りに思える私」になるということが、アメリカ人にはうける内容だったらしい。(これは日本語で考えたテーマ設置であり、アメリカ人(?)の考えではありません。)アカデミー賞にノミネートし、批評家と観客双方から高い評価を、この映画は得ている。このことからも、この映画に感動した人は多いみたいだ。だが、私はこの映画を面白いと思えなかった。この映画を面白いと思えなかったことが、私が「自分が誇りに思える私」になっておらず、なろうとしていない、ということなのかもしれない。自分にプライドを持つことをあきらめさせられてしまった日本人の一員として、生きるのは、大変な一日一日を送っているのですね。
長距離で過酷なハイキングをしている人が作中ではたくさん描かれていた。ハイキングのための休憩所や荷物を配達するところがあって、たくさんの人が歩いていることが分かった。ハイキングをする理由は人それぞれだと思うが、どうしてあんなにたくさんの人がハイキングをするのだろうか。過酷な旅にわざわざ行こうとするのがよく理解できなかった。主人公のように、自分の中の壁を超えるための手段として、あのような旅に出るのだろうか。宗教音痴の日本人の声ですね。「ハイキング」を日本語で理解していませんか。この映画は「ハイキング」「ピクニック」の映画ではなく、トレッキングのロードムービーなのです。歩くことは「宗教」ではよく行われています。「巡礼」は色々な宗教にあるし、日本でも行われています。「宗教」から疎外されてしまった日本人は、どこを歩くことなく、単に日々、忙しい移動をしているだけなのでしょう。