アフガン零年
B5W41902 瀬島菜那
タリバン政権(1994-2001年)により、街を女性だけで一人歩きができない中、父を失った家族の生活をするために、男と偽って外に出て生活する・仕事をする少女の物語だった。(女性、男、少女の物語の背後にある社会状況を理解しましょう。)
女性が一人歩きできないということに驚いた。(イスラム原理主義に基づく女性の扱いには、他にたくさん「驚くべき」ことがあることを知りましょう。)映画のように男性の家族を失ってしまった女性(妻)は、生活費を稼ぐことができなくなってしまう。職場に行くにも男性が付き添わなくてはいけないし、その助けが受けられなかったら、職場にも行けない。タリバン政権が台頭する前のアフガニスタンでは、女性の社会進出が認められていたり、女性国会議員も早くに誕生していた。タリバン政権が樹立してしまったことで、このような状況になってしまったことがわかった。タリバン政権が崩壊した後、女性が独り歩きできないような状況は変わったのだろうか。残念ながら、未だイスラム原理主義による女性抑圧はたくさん存在し、「名誉殺人」も当然のものとして行われている現状があります。難民問題の影に隠れて、知られていません。
映画の少女は生活のためやむなく少年として生活(?)するようになったが、最終的には、死刑との二者択一で、年寄りのおじさん(長老)と結婚させられてしまう(結婚とは性行為を意味しています。)。イスラム国家では女性は若くして結婚することが多く、これはムハンマドが9歳の女の子と結婚したことから許されている、と考えられている。イスラム国家では、女性が結婚相手を選ぶ権利はないのだろうか。(家父長制です。)国によって違うのだろうか。女が自分で結婚相手を選ぶことができず、部族の男性に選ばれるだけというのは、女性は男性の所有物だということだろうか。結婚相手や子供を自分の所有物のように扱い、自分の支配下に置こうとする人は、イスラム国家でなくても多いのかもしれない。(日本も、70年前までは「家制度」で当たり前だったし、現在でも男の支配下に置かれる女性になりたがる女性が多いのが日本の特色です。)
女性の肌を見ただけで男性は興奮しないと思うのだが、タリバン政権はそうは考えていないらしい。家の中には女性はいるだろうし、女性の肌を見ても興奮しないことくらいちょっと考えたら分かるような気もするのだが、そこまで考えないのだろう。(考えているなら、もっと考えましょう。家の中には「女性」はいないのです。いるは「妻」「母」「娘」なのです。彼女らは「女性」ではないのです。「女性」には「興奮」するように作られていますが、「妻」「母」「娘」には「興奮」しないように作られているのです。)どこかの国と、似てますね。タリバン政権下では、宗教警察が風紀違反を取り締まっていたといるそうだが、納得のいかないような理由で規則を作っているところが、日本の中学校や高校と似ているように思えた。(日本では「学校」だけでなく、日本全体でやっていますよ。)批判の対象として認識した事象と、同じことが現代「日本」でも、行われていることを認識しましょう。