タリバン政権下(1996-2001)のアフガニスタンでは女性の権利が制限され、女性は親族の男性同伴でなければ外出は許されなかった。1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻して以降、アフガンでは,ソ連政権と反政府ゲリラの戦争や国内での権力争いに伴う内戦など戦争が絶えず、夫や兄などの親族の男性を亡くす女性たちも珍しくなかった。そうした女性たち(残された家族たち)は、外出することも困難で働くこともできず、厳しい生活を送らざるを得なかった。(難民、避難民、亡命者となる。)この映画の主人公である少女もそうした状況に置かれている。「女性は守られるもの」として、基本的に女性は外出を許されないなかで、母親は少女の髪を切り男性の服を着せ、少年として働かせ、一家の収入を得ようとしていた。
タリバン政権下では女子教育が禁止され、男子だけがタリバンのマドラサ(イスラム学院)に通っている。そこではコーランを読んだり兵士にするための軍事練習をしたりしている。タリバン政権下だからであっても、女性に選択権は無くまったく自由ではなかったと思うが、女子・男子たちは将来誰かしらと結婚することになるのだろう(恋愛結婚ではなく、長老が決めた相手と)。そこで疑問に思ったのが、マドラサに通うことのできる男子はタリバンの兵士になるための教育を受け、女子はまったく教育を受けることができないということは、生殖の仕組みについての知識を教えるような性教育は行われていないということだろうか(はい、全く行われていません(70年前の日本も同じです。)生殖の仕組みも、生理のことを母が多少教えるくらいです)。タリバン政権下では性教育をするという発想自体無いのだろう(日本の右翼的「性教育」=純潔主義、処女崇拝、男性中心の生殖主義が、女性への性教育です。)。性教育をする必要があると判断するには、男女ともにセックスするかしないかの選択ができることや、生殖目的ではないセックスをすることが社会的に認められていることが必要になるだろう(欧米でその考えが出てきたのが70年代です。)。しかしそうしたことが認められておらず、女性は結婚するまで処女であることが大前提であり、セックスをするときは結婚後なので妊娠しても問題ないとされているため、性教育をするという発想がないのだろう。それを理解させるのが「性教育」なのです。日本の現代右翼と同じ性教育です。
映画では、少年に変装していたことがばれて宗教裁判にかけられたあと、老人と結婚することによって刑罰は免れていた。少女はそのまま男性の家に連れて行かれたが、それ以降自分の母親や祖母に会うことはできたのだろうか。(多分会えないでしょう。)また、映画の最後の方では老人が入浴していたが、一応初潮がきているのなら「女性」とみなされてしまうのだろうか。(否、9歳で女性なのです。)もう一つ、10代前半の女性を結婚相手にしてしまうのは、結婚前にセックスをさせないためということもあるのだろうか。はい、「夫」との生殖セックス以外は、認められていないのです。婚姻内セックスは、男社会を維持するための手段なのです。イスラム教ではなく、イスラム原理主義の男女観やセックス観は、日本の極右の考えと似ています。イスラム原理主義は、日本にとって他人事ではないのです。
アフガン零年
|岡部 さよ子