B3W41087 苗木
私はホロコーストに関する映画をこれまで「アンネの日記」しか見たことがなかったので、この映画でより詳しく知ることができたと思う。もっともっと映画・本に接しましょう。
先生がこの映画を見る前に言っていた「我々はこのお母さんの立場ではないですか?」というのは、現状を知り、ショックを受けるが何もできないでいる立場が同じだと言っていたのではないかと思い、たしかにそうかもしれないと思った。まず知ることが大切だと思うのだが、やはり自分1人でどうこうできる問題ではないので、ショックを受けるばかりのこのお母さんと同じなのだろう。このお母さんという「女性」は、裕福な生活を戦中でも送っていますが、夫の世界で何が起こっているのか、今まで全く知りませんでした。知らないこと自体を知らないのです。知って何もできないのではなく、「幸せな」生活の中で、最愛の対象となった我が「息子」も、自分の無知の世界によって、殺されてしまうという人間存在なのです。無知・無力でいると、自己矛盾の人生しかできないその人生に甘んじてしまっていることに共通項がありませんか。
ユダヤ人を殺す方法が毒ガスで苦しんで殺すというのは、なぜ身勝手に殺しているのに苦しませる必要があるのだろうか。苦しませるのが目的でなありません。あの状況の中で「合理的な」「効率的」な手段を選んだだけなのです。ユダヤ人は悪で人間ではないと考えていたにしても、あの映画のように家の手伝いをさせていたり対面したら同情する心が生まれなかったのだろうか。(人間観がどう形成されるかを考えると、ファシズム的関係の中では、「同情」的感情もまた簡単に操作されています。現在日本もファシズム的人間観を持っている人がたくさんいます。)悪だと考えているユダヤ人を自分の家に入れ、手伝いをさせるのは嫌じゃないのだろうか。この映画に描かれていたことのどれが実際にもあったのかわからなかったが、ユダヤ人が生活の近くにいるように感じたので疑問に思った。この人間観は、近くにいる人間は人間だか、遠くにいる人間は人間扱いしなくても理解できることが前提となっていませんか?