B3W41087 苗木
この映画の題名が原題の「Wild」から「わたしに会うまでの1600キロ」になったのは、私の中でWildと聞くと野生的であったり、なんとなくターザンのようなイメージを思い浮かべてしまうので、邦題のほうがいいように感じた。苗木だったら、映画を見て、どんな「邦題」を最初に考えますか?わたしに会うまでのというのは、日本では自分探しという言葉がよく使われるから、自分を探すという意味でわたしに会うにしたのではないかと思った。「自分探し」ってなんだと思いますか?
母の死を乗り越え(どんな母の死の乗り越えだったのでしょうか?)られずに歩くことにした物語だったが、なぜ他のことに熱中するのではなく歩くことを選んだのか疑問に思った。(「歩く」のは、巡礼やお参り、参詣などになると、宗教的意味合いがあるが、聖なる自分探しが歩く意味になっているのでしょう。)歩くのが好きだったとは言っていたが、熱中したいならスポーツでも、街を離れたいなら旅行でもいいのに過酷なウォーキングを選ぶほど自分を追い込みたかったのだろうか。現在、ウォーキング・ハイキング・トレッキングのアウトドアアクティビティは、中高年を中心に人気の「スポーツ」となっており、単にスポーツとしてだけでなく、「巡礼」的な意味を含む活動としてなら、何が考えられますか?その答えが、トレッキングだったのでしょう。
つらい思いをして踏破した結果、この映画の中では何を得られたのかあまりわからなかった。苗木が、人生に何を求めているかに気づかない限り、こうした映画の「結論」は分からないままなのではないでしょうか。結局歩いている途中もずっと母のことを考えていて、母から逃れたいわけではないと思うが、離れられてもいないように感じた。苗木と「母」の関係を考察しないと、いつまでも他人事の問題ではないでしょうか。