「わたしに会うまでの1600キロ」は、シェリル・ストレイド(1968年生まれ)の原作『Wild: From lost to found on the Pacific Crest Trail』(2012)をもとにした2014年のアメリカ映画である。DV夫と離婚した母の死(1990年45歳))以降自暴自棄になっていた主人公が、自分を見つめ直すために歩いたパシフィック・クレスト・トレイルでの様子などが描かれている。
この映画のあらすじにはいつの時代の話かということが言及されておらず、また映画のポスターからもそうした情報が得られなかったので、最初に映画を見るまでこの話が1990年代前後のものであるということに気づかなかった。そのため、映画の中でいつ頃の話か示されるまでは、映画が公開された2014年当時の話(現代もの)と勘違いしており、話を理解するのが難しかった。はい。
今回この映画では、映画を見て社会学的に考えるということの難しさに改めて気づいた。(はい、良い気づきです。)単に映画を物語としてみるのではなく、物語の時代背景(社会背景、文化背景も)に注目し、その時代に生きる人間のとる行動として登場人物のことを考えなくては、映画を見てもその中の出来事に関して社会学的に考えることができず、その映画が自分の興味関心から外れていたら、どんな出来事も「自分に関係のないこと」「理解できないこと」として処理されてしまう。(そうですね。出来事に関する日本人の大半の反応です。))そうではなく、物語の時代背景に注目し、その時代に何があり、その時代の人がどんなことを考えていたかを想像すれば(「社会学的想像力」:ライト・ミルズ)、現代の自分には理解するのが難しいような登場人物の行動や話の流れも、少しはわかるようになるのではないかと考えた。(そうです。)椎野ゼミで映画を見るようになるまで、そのようにして映画を見てきたことはなかったし、またゼミで見るようになっても、そうした見方をあまり理解していなかったということに気づいた。(はい、良い気づきですね。)
この映画では主人公とその母の母子関係についても描かれていた。現代の日本社会に生きて、社会学をかじっている私は、最初「自分の中の母親像を相対化してないのではないか」という疑問を主人公に対して持った。(母親像の相対化も時代の産物なのです。フェミニズム運動以前にはできないことなのです。)しかし自分の母親世代の人たち(主人公の世代)が母子関係についてどう考えているのかを、自分は考えたことがないことに気づき、また現代の日本社会での母子関係や家族関係を考えるには、自分とは違う世代の人(親世代)がそうしたことをどのように考えていたのかを知っていることが必要だと思った。はい。
ディスカッションの中で、「アメリカはキリスト教をもとにした規範が強い」という話(アメリカは、ピルグリムファーザースのピューリタン=正教徒(プロテスタント)が作った国です。)と「なりたい自己像の一つとしての『母が誇りに思う私』」の話があったが、日本でも親が就活に口を出したりすることがある。しかし規範の強い社会で生きる親が子どもに対して「誇りに思える人物像」を示すのと、いい加減な規範が存在する社会で親が子へ「なるべき大人像」を示すのでは、意味が変わるのではないだろうか。(はい、明確な「規範」には、それに対する抵抗もできるのです。)規範がある社会では、子どもは規範を理解し(反抗もし)その中で生きる(あるいは生きない)ことができる大人になることが求められる。しかしそれがない社会ではそうしたことも求められず、大人として社会の中でどのように生きればいいかということが示されない。(大人社会にも、実は「大人」がいないのです。)また「社会」の範囲も狭く(「女子供」の世界)、その中でしか通用しないものが「規範」とされてしまうはい。先生が、「日本では『母親が誇りに思ってくれる自分像』すら示されない」(母親自身に「誇り」がないのです)と仰っていたが、規範がないからこそ、どんな大人になったらいいかが示されないということだろうか。(はい、日本では、中身のない規範としての「大人」社会が、蔓延っていますね。)
わたしに会うまでの1600キロ
|岡部 さよ子