パリ20区にある、生徒のほとんどが移民の公立中学校で、そこで働く教師と生徒たちが過ごした一年間の様子が描かれた2008年製作のフランス映画(Entre les Murs壁の内側)である。自身の教師としての体験を元にした本が原作(「教室へ」)で、原作者も教師役として出演している。生徒たちも自演です。
最初にこの映画を見た時には、「唐突に始まり唐突に終わった」という印象を持ち、映画の中で何が起こっているのかよく理解できなかった。(学校の教室で生起していることは、実は、文化的外部からは見えないのです。)またフランスの中学校での出来事を、日本の中学校と同じようなものとして無意識のうちにとらえ、それに基づき映画を見ていたことが、当時理解が進まなかった原因ではないかと思った。はい、日本の学校を、デフォルトにしてしまうと、他の文化の学校のあり方に関心が向かないのです。日本の学校は、何であれ「関心」を奪うところです。
あらすじでは簡単に「生徒の大半が移民のフランスの公立中学校での一年間の出来事」と言うことができるが、実際に「移民が生徒の大半を占める」とはどういうことかが映画では描かれていた。パリ20区は、移民の多い地区なのです。生徒はそれぞれ文化的背景や出身国が違い、教室での過ごし方や感情表現の仕方も違い、口語的なフランス語が話せても、状況に応じた話し方ができなかったり、読み書きの能力が不十分であったりして、そうした能力もバラバラの生徒たちを一つの教室で教えることの大変さがわかった。はい、具体的に移民の姿が見えてきましたね。「生徒の大半を移民が占める」といっても、その移民も同じ地域からまとまってきたのではなく、様々な地域から来たバラバラの移民であり、単純に彼らを「移民」としてまとめ、「教室に移民がいる」と大雑把に言えない状況の深刻さがわかった。はい。(何10万人の「難民」も、実は、一人ひとり状況が違う個々人なのです。)
日本の小中学校では、日本語の授業が「国語」として行われているが、この映画ではフランスの「国語」の授業は「フランス語」という科目名を持っていた。はい。国語=national language=国家言語。社会の中で生きるための必須の道具として言語が位置付けられており、また「人は社会の中で生きていかなければならない」という考えから、生徒に対してフランス語の授業をしていた。はい、日本にはこうした授業がありません。社会の中で生きるために必要な言語を、教えていません。日本では「言語」と「生きること」が交わっていないのです。移民にとっては移住した先の言葉が(母語でない)外国語であることが多く、ある一つの言語だけを「国語」として教えてしまう日本社会の無神経さに気づいた。はい、日本は単一言語主義国です。日本で外国籍の子どもが公立の小中学校に通うことはもはや珍しいことではないにもかかわらず、日本には移民(特に子ども)がいないことになってしまっているのではないだろうか。はい、日本では、外国籍の子どもたちは、日本の学校に通う権利も義務もないのです。
ディスカッションの中で、先生が「フランスは大人と子どもをきっちり分けている」と仰っていた。別の授業であった民事連帯契約PACSについての説明で、18歳からこの制度が利用できると知り、「18歳ではまだ子どもなのではないか」と思った。大人と子どもをきっちり分けているフランスでは、18歳までに大人になれるように教育をしているから、はい。日本で考えたらまだ子どものような18歳でも、フランスでは大人として扱われるのだろうか。はい、ヨーロッパでは成人(飲酒、選挙権など)年齢を16歳にしようとしています。
パリ20区、僕たちのクラス
|岡部 さよ子