この映画は、アフガニスタンからカナダへ亡命した女性が、アフガニスタンでの生活に絶望したため自殺するという妹へ会いに行く(道すがらの出来事の)様子を描いている。
映画を観終わったあと率直に思ったことは、アフガニスタンという国や、そこで起きたことや起こっていることがあまりにも自分から遠すぎて、映画がシュールに感じたということである。(逆に言えば、世界の現実から「シュール」する日本の姿が、垣間見られますね。)盗賊に何かを奪われたり、砂漠を歩いて移動しなくてはいけなかったり、砂漠と人が住む場所の境界線が見えなかったり、そうしたことが少なくとも2000年前後にはあったということを理解するのがまず難しかった。(2016年の今、アフガニスタンでも「シリア」でも、起こっていることなのです。)9.11以降、暫くの間は戦争状態のアフガニスタンのことがテレビに映ることもあり、アフガニスタンという国の存在は当時小学生の私も知っていたが、そこで暮らす人の生活状況やアフガニスタンが報道されなくなった後のことは何も知らなかったということがわかった。(はい、現在のマス・メディアによる情報の現状なのです。マスコミから消えると、世界の現実がなくなってしまい、人々の「無関心」が始まるのです。世界の出来事に関して)
映画の終わり方について、私は最初あの場所で捕まっても、捕まるだけでは殺されることはないだろうと思っていたため、「ナファルはカンダハールまで行けなかったのだ」と解釈した。(捕まえたのは「タリバン」兵であり、タリバンとは何をしている集団であり、今の「IS」も同様な状況ですね。)しかし、あの場所で「捕まる」ということは、私がイメージしていたような「警察に捕まる」とかそういったレベルのことではないということがディスカッションでわかった。捕まっても解放されるかはわからないし、自由に行動することもできなくなるし、場合によっては殺されてしまうかもしれないということが、観終わった時に想像できなかった。(今、中東で起こっている不条理に注目しましょう。)
この映画を通して監督が伝えたかったことは、「絶望的な状況でも何もしないより何かするほうがいい」ということや「希望を持ち続ける」ということなのではないだろうか。(難民にとっての「希望」とはなにかを思い巡らせてください。)大変な状況を変えるにも、絶望して死んでしまっては変えるための行動ができない。しかしそう考えると同時に、自分は絶望的な状況でも希望を持ち続けられるだろうかと考えてしまう。(平常な現状でも「希望」を持てない日本には、絶望時にも「希望」は湧いてこないでしょう。)この映画に出てくる状態だけが「絶望的な状況」ということではないが、こうした状態をまず想像することも難しく、難民や難民にもなれない人たちの状況の困難さを知ることはできても、それが「現実離れ」しているように感じてしまう自分と自分の「現実」の範囲の狭さを認識した。「現実離れ」している日本で、「難民」問題も他人事である平和な日本の「平和」の恐ろしさを感じませんか?
カンダハール
|岡部 さよ子