b3w41036(岡部)
この映画は、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの制作で2013年に公開された。原題は「Frozen」で、ディズニーとしては初めて2人のディズニー・プリンセスを主役として登場させている。(初の女性監督ジェニファー・リー。クリス・バックと共同監督だが。)
この映画に対しては、ディズニー・プリンセスが2人登場し、その2人共が「王子様とのハッピーエンド」を選ばないという点でそれまでのディズニーの映画とは違うという意見がある。確かにこの映画では典型的な終わり方はしないが、話は全て愛まかせで進み、「愛があればどんなことでも乗り越えられる」というメッセージを感じる。そうした点ではこれまでのディズニー映画とは特に変わったところは無いのではないか。はい、「真実の愛」探しで、ディズニー・アニメはキリスト教の教えを否定したことはないのだ。
映画の後のディスカッションで劇中歌の「Let it go」とその日本語訳の比較をした時、それぞれの言葉で意味が大きく変わることに驚いた。日本語では「ありのまま」が連呼されているが、英語の「Let it go」にあえて主語をつけるとしたらそれは「I」になるのではないだろうか。(Letの命令法では、主語は youであり、「あなたが、〜〜させなさい。」という意味になります。)「Let」には「させる」「することを許可する」という意味もあり、能動的な言い方であることがわかる。(はい、youが主語なのです。)日本語の「ありのまま」は何が「ありのまま」なのか抽象的で、また能動的でもない。(「ありのまま」は、「虚飾のない」という意味になり、日本語では「世の中のしがらみを断って、自分らしく」みたいな意味になります。)しかし、エルサは、「自分らしく」はなれない「魔女(魔力を持った女)」であり、このシーンは「魔女」の勧めであるのだが、日本語で見ている日本女性は、「自分」幻想にかられているだけで、「魔女」にはなれないのです。
映画の中で言及されることの多かった「真実の愛」について、そもそも愛とは何なのかという疑問が出てくる。映画の中では「自分より相手のことを大切に思うこと」というようなことが言われていたが、それはそうした発想の元にキリスト教の隣人愛があるからであるとディスカッションの中で話があった。アメリカでこの映画を見た人などは「真実の愛」がキリスト教の隣人愛のことであるとわかるのだろうか。キリスト教背景の社会では、「愛」とはまず「神からの愛(アガペ)」で、「無償の愛」となります。人への愛(友愛)がフィリアで、他愛=隣人愛となり(これが「真実の愛」とされる)が、ディズニーでは、エロスの愛は無視されます。また、「愛」について取り上げられるとき、その解釈の仕方は、「愛」について考える言葉を持っているかどうかによって変わってくるだろう。(はい、そうです。良い気づきです。上記参照。)この映画の「真実の愛」のベースにキリスト教の隣人愛があるなら、その発想が理解できる人には「真実の愛」が何か理解しやすいかもしれないが、そうした発想がわからない人(=多くの日本人)には、「真実の愛とは自分より相手のことを大切に思うこと」と言われてもよく分からないだろう。はい、今の「日本人」には、愛とは、(上記と異なり)自愛が中心であり、恋愛としてロマンス化され、エロスには愛がありせん。また「愛」とは「大切」に思うことが日本語へのloveの翻訳語なのです。
またディズニー初の2人のディズニー・プリンセスを主人公としていると言いつつも、邦題「アナと雪の女王」ではエルサの存在が示されていないのは、素直に姉を思う妹の方が見る人にとっては感情移入しやすいということなのだろうか。エルサの人物設定は上述のような複雑な人になっており、日本では理解し難いものとなっているのでしょう。
素直なアナを主人公とし、物語が漠然とした「愛」の話として受け入れられたことが、この映画が日本でヒットした要因の一つであると考えられる。現代日本には、非常に単純化された「愛」が流通し、素直な自分が好きの人が溢れていることを見越して、日本版「frozen」が作られているのでしょう。