アンネの日記
B3W41102 蛭田一樹
かつて、「夜と霧」という本を読んだときに、「この出来事はある特殊な時代に起きたある特別な出来事ではない。」と書いてあった。アンネの日記のテーマにもなっているユダヤ人迫害における、ヴィクトール・A・フランクル著の強制収容所における手記である。では、アンネ達の収容される前の生活や世間についてはどのような様子だったのだろうか。私たちとアンネ達では当たり前だけれども、置かれている状況が大きく異なる。アンネ達の国では、ユダヤ人とドイツ(アーリア)人に大別され、情報には規制が入り、満足に知りたいことを知ることができない(両者との同様です)。我々は自分で情報を手に入れることができ、それぞれが公的に差別されているわけではない。(そうだろうか?)???(私たち=現代日本人では、歴史認識ができません)比較するなら、当時の日本人であり、当時日本とドイツはファシズム同盟国、そのドイツがユダヤ人を迫害したのです。全く状況が異なります。ユダヤ人迫害は戦争と深く関係して起こっていたものであるが、この時代はみんな(?みんなか?戦争に反対した人のことも知りましょう)戦争を(に?)迎合していた。日本人も今でこそ戦争は良くないと考えている(アベノミックスもそうか?)が、戦争を「良くない」、「避けるものだ」といっている人ほど戦争と直面したときに、受け入れてしまうように感じる。私の考えとして、「戦争」とは「国民」、または、「戦争に対して、好むまたは無関心な国民」がいなければ行われないと思う。その国の政府が判断をするときに、それは報道される(そうか?公報しかないよ)。今回のアメリカとの安全保障(?)然り、TPP然り、である。これらの判断に対して考えることができる国民たちは「民衆」(民衆って何?)となってその決定に干渉すべきだし(民衆にはどうなるのですか?)、それ以前に自分の考えと合致している人(それが自民党なのでしょう)に投票をすべきだろう(。そしてその投票率が低いことも問題である(なぜなのでしょう?)。
こういった戦争についてたくさん考えている人もいるため、語弊がないように言及したいが、「戦争」という言葉が、ただの”Sensou.”という響きだけの人がいる。この「戦争」も特別な時代に特別な出来事として記憶するべきではない。ひょっとすると起きてしまうものである。(中国・太平洋戦争の事実をまずは知りましょう。)戦争が起これば、最初のうちは自衛隊を飛ばして戦い、兵を失うということになれば、負けることを恐れて国民を徴兵していくだろう。そうして若い人が使われていくのである。私自身を含め、死ぬために行くのである。どうして行くのかといえば、私たちが選挙によって投票、または投票しないことで選ばれた首相によってである。(この戦争観は、sensou観と五十歩百歩ですね)もう少し具体的に考えましょう。ここまでのことを考えると、確かに日本は平和ボケしているといわれるところにも納得がいく。自らの生命を考えないで政府を選んでいるのだからそういわれても仕方がない。本当にこれからの生活を考えて、これからの身の振り方が政府によって決定づけられていくことが自覚されていくのであれば(この関連は認識されていないし、「生活」「身の振り方」も抽象化されており、国家・政府と関係していると考えられる人はどのくらいいるのだろうか。)、選挙やその政治家の考えていることなど知りたくなるに決まっているのである。自らを少数派だと考え、自分がだれに投票しても何も変わらないことなどはない。何かの話で自分が思いついたことは日本人の100人が思いついている、という言葉があったが、それらは地球の歴史の中で一回だけではなく、何度も何度も行われるだろう。それらは少しずつ形となって、行動までたどり着かなかった人の行動を呼び起こすきっかけになるのだと思う。民衆は集団であって個人だということが現状の多数決主義を多数決主義で覆すきっかけになってゆく。最後をもう少し理解できるように書き加えてください。