あの日の声を探して
B3W41102 蛭田 一樹
こういった映画(どんな映画?)は私が椎野ゼミに所属して初めてだと思われる。これまで戦争といえば、(「戦争」観が門切り型で単純なのではないか?)、アメリカが行うものか、戦いの影響で苦しむ中東の人々のお話、または日本社会を客観的にみるという名目で「日本人」を見ることに主眼が置かれていた。さらに新鮮さという面で、この映画のロシア人青年とチェチェンの少年の両サイドを心配しながら見てしまったことだ(そのように作っている映画です)。これまでは片方をクリティカルな視線で見て、「どうしなければいけない」や、「こうすることもいいのでは?」といった考え方をすることが多かった(敵味方論で見ているのですね。)。そうした点で、どういった立場があるのか考えながら見た(椎野先生の前置きを聞くことができなったことが最大の原因ともいえます)。はい。
最大のテーマは「戦争状態がもたらすもの」と「人権」だと考えた。特に現在私自信自身?「人権」という言葉はホットワードで、というのも、半年前まで「人権」とはぼんやり「人として持つべき権利」と考えていた。だが、これを自分の想像できる範囲で―例えば某教師の「教師は生徒のために捨て石になる」という言葉を考えるとき(捨て石になった先生などいません、なぜならその必要がないからです。)、生徒のために自らを犠牲にしたいと考えるのであれば構わないが、それをほかの教師に押し付け始める(どの権力で?)と、現代の人間は自分よりも他人に厳しくする傾向が根拠となって、際限がなくなる(強権政治の教育になっているだけで、それ自体「教育」ではありません。)。私は「人間らしく生きる」という理解で止まってしまっていることも現実だが、それでも自分が考える「人間らしさ」で「人権」を考えることができる。「人間らしい」とは何かをどのくらい考えられていますか?(世界の人権蹂躙の具体的状況をどれだけ知って、「人間」らしいを考えていますか?)
「戦争状態がもたらすもの」は庶民に最も大きい影響を与える。兵士として(?)、攻撃を受ける対象として。(平時の生活をどのくらい想定できますか?)日本も戦闘(戦争と違うの?)を行う国家になりつつある。時の首相や、軍事を含む国家の決定を選ぶのは祖の(?)国民である(そうか?)。先日テレビでドイツの戦争に関する考え方が放送されていて、彼ら(Who?)は戦争の犯人は「ドイツと国民」と答えていた。ヒトラーが悪いのではなく、ヒトラーを選び、戦争を(に?)迎合し、ユダヤ人を排除しようとしたことを自覚するということを授業で行っていた。戦争を起こさないような教育を行うことが戦争を起こさないきっかけになるのだと考えた。(戦争を起こそうとしている政権下の教育としては無力ですね。)我々の国でも、投票をしようという旨のマスコットキャラクターが存在している。けれども我々の投票率は上がらない。戦争や、国の決定にどうかかわっているか、どのような意見を持っているのかということがないと選挙の動機づけにはならない。選挙をするという事実にとどまらず、選挙の1票に自らの究極の価値を付加することが現代で生きていくために必要なことの一つだと感じた。(選挙、一票主義の政治観を、見直しませんか?)