「おやすみなさいを言いたくて」
B3W41102 蛭田一樹
この映画の論題となったのは、「子供の育て方」、「女性が社会に出ること」、「フォトジャーナリズムとは」の三つだった。
私がまず興味を持ったのは「子どもの育て方」である。ここでの論点は「子どもを大人にさせること」である。親たちは子供を育てるという意味として、社会に出せるようにするということがあるようだ。社会がわかっているということを「社会がわかる」とするのであれば(redundant)、親の責任は親それぞれが考えていなくてはいけない。(はい、だが「社会」とは何かを実は考えていないのです。今の社会しか「社会」がないのです。)習い事をさせることや、いっぱい勉強させること、いっぱい自然に触れること、などなど・・・。なんとなく「よさそうだから」という理由で子どもに体験させるのではなく(教育ママ的発想ですね)、こうなってほしいからという願いの下夫婦の決断として行わ(そんな父母はいませんね)(みんなと同じになってほしいが最大公約数でしょう。)なくてはいけないと思う(私の場合、何となくで習っていたことのほうが多い。)。もちろん親の意思が強すぎてはいけない。習い事や、自然に触れることでどうなってほしいかを子どもと話し、決定するという流れが必要不可欠になってくると思う。(そんな流れを作っている親はいないのです。)私たち日本に住む人間はどうしても子どもを一人の人間として判断できない節がある。子どもが家の持ち物であるという古い思想である。(そんな古くないのですよ、たかだか100年のイデオロギーです。)ただ、子どもと対話を行う場合、自分と同じレベルではないことに気をつけながら話さなくてはいけない。(対話ができる大人になっている大人がいません。)とにかく、子どもに「こうすればうまくいくのだ」という押し付けは、同じ親を再生産するだけだということだ。私自身今大人になれているかという点においては、強くうなずくことはできないまでも、「大人ではない」という回答は出ない。軽くうなずくことはできる感じである。大人として、社会の出来事に耳を傾けることはできている。(日本の大人の最大公約数を再生産しているだけです)別の映画の感想で「結婚」についてのべたが、ここに「一緒に子どもを社会に送り出せる人」という項目も作らなければいけない。夫婦で取り組むからである。夫婦で「一緒」のことなどなく、どちらか一方のことが、他から見て「一緒」とされているだけでは?
また、台所で仕事をする父親の姿も印象的であった。いまだ日本では、上手に仕事(家事?)をこなす夫は、仕事に?失敗をするというのが常識である。つまりそれは「男は社会には出られるが、家事をやらせれば失敗する」、「女は社会に出る能力はないが、家事は抜群にできる」というテーマがしっかりと残っているからだ性別役割人間を自明視している日本人なだけですが。。私自身印象的だったということは、無論私もそのような思い込みをしっかりしているということである。これは自分にも影響を与えてしまう。人間は慣れで料理でもなんでもできてしまうのに、料理ができれば「すごい」。できなくても「あたりまえ」のような思いこみをしてしまう。だが、私はこのような「おとこらしさ」「おんならしさ」から脱却できるよう努力もしている。常に自分ともう一人の自分で、誰かに向かって放つ言葉(レポートや会話)を確認するシステムを構築している。(はい、省察的人間になってください。)誤作動や間違いはまだまだあるけれど、それはしっかりと私をバックアップしていて、自分を改善していくことにつながっている。そういった果てしない努力が人生に上乗せされることで、より新しい欧米的な大人らしさにつながってゆくのだと信じている。(欧米にも「大人らしく」ない人はたくさんいます。どうも「努力人間」でご勘弁を、みたいで、考えが優等生指向ですね。)
上記のあと2点については?