「今度は愛妻家」
B3W41102蛭田一樹
今回の映画で、一番考えたことは「結婚」についてだ。かつてより考えていて、なんで結婚するのだろうという思いがあった。そこでこのディスカッションを通じて、まず気づかされたことは、「結婚から考えるからよくわからなくなる」ということであった。はい、良い気づきです。「結婚」をデフォルト(初期設定)にしている限り、「常識」的人生観で、始終するだけです。私自身結婚の先に何かあると考えていたから、結婚したら手に入る何かがあると考えてしまっていた。その先に得られる実利的なものと言えば、結局お金でしかなかった。(陳腐な思考停止の結論ですね。)結婚した後に、定年まで働けば共同遺産としての退職金である。夫を支え続けた妻と、働き続けた夫への多大なる報酬金である。(どうして性別役割夫婦をデフォルトにしているのか?)または、どちらかがその夫婦の契りを侵すようなことをするのであれば、その違反金として慰謝料を請求することができる。慰謝料が存在すれば、その「たすけあう」関係を侵すようなことをしないと考えたのだろう。飲みの席でも言ったことがあるが、「結婚」とは、「働きマシーン」と「出産マシーン」を生み出す装置だと自己解釈している。ここから脱却する道を私は知りたいと考えた。無自覚な「不安」を抱えている人が、「結婚」幻想に、その逃げ場を見出しているだけで、大して「生産的」でない我慢の人生ゲームですね。「脱却」という発想では、デフォルトな結婚観に囚われているままでしょう。
一つ目に考えなければいけない事はどのように「自立」するかということだ。将来設計という考えを用いれば、大学で性的、精神的、身体的自立をして、卒業後に働いて経済的、生活的自立をすることができるかということだ。大学では何をすればいいかを考えて残りの一年を過ごしていけるが、2年先のことが全く考えることができない。どんな働き方をするか、どこで働けるか、これは我が文教のキャリア支援課に相談することにする。短絡的な人生観しか抱けない日本型人生の中で、仕事のことを考えている限り、結論は出ています。
二つ目に考えなくてはいけないのは、これら自立をするにあたって、その将来も考えていかなくてはいけない。私はその前提として、誰かと暮らしていこうとは思っている。その誰かとは、探す手段の中でのみ選択できる。私の持っている探す手段は「恋愛」によるものと「似た結婚観を持つ人」だ。それぞれ問題を抱えていて、「恋愛」によって探すと、相手が近代的な結婚に憧れていた場合、私が悩んでいたことの多くが水泡と化してしまう。いわゆる適職ジプシー状態である。後者の基準で探す場合、「似た結婚観」に加えて、何か一緒にいられる理由が必要となる。お互いの好みにかなわなければその生活は破たんしてゆくだろう。むしろ逆に言えば、対話を用いて、お互いの考えを理解してゆけば、さらにそれを長い間行えば、それが新しい「夫婦」になるのではなかろうか。(一人で「夫婦」になるような発想ですね。「恋愛」も「結婚」も頼りになりません。そこから始められる相手探しができますか?)実践しているフシもあるが、付き合ってからでは遅いようである。なかなか難しい。別の相手ともそうした話題を持ちたいが、先方がよくわからないことを言う人だな、と離れていってしまう気がする。(そこで離れればそれでよし。離れない方が問題です。「よくわからない」ことからスタートできる相手かどうかですね。)ロマンティックラブイデオロギーに「対抗」するすべがなくて、迷っているが、「退行」しないようにしてゆきたい。どっぷり浸かってきたものを、一瞬でチャラにできません。