「別離」
B3W41102 蛭田一樹
この映画を見て感じたことは、女性がとても多くの発言をしていることだ。
しかし、女性が話していた多くのことは、特にラジエーの発言は一人の人間の発言として成立していなかった気がする。(この状況では「人間」範疇が成立していないのですが。)ヒステリックな発言が印象的で、その様にしなければ聞いてもらえない場面が多かった。「私はこう思います」と発言しても誰にも聞いてもらえない。だから声を大きくして聞いてもらうしかない。そうまでした?て?出した声は夫に「うるさい!」で一蹴されるわけだけど。ここから感じたのは、両者が自立したうえで発言されているものではないなということだ。状況は、家父長制が前提なのです。私は絶対的な存在を持つこと(意味不明)(要説明)が個人と考えている。家族で一つの単位という、妻がいて夫がいて、それぞれがいるから、それぞれ相対的に存在しているのは個人ではないと思う。はい。お互いがお互いの存在に依存して、擁護しあって、そこでやっと発言していた。対する離婚した夫と妻はそれぞれの意見を言いあって、その結果別れている。(だからこそ、離婚できたのです。)お互いが自分の守りたいパーソナルスペース(これは何?)(要説明)を確実にして、相手の?意思を尊重できることは一人の人間である表れだ。
夫婦間における間柄もそうだが、この日本社会には人権という考えが、まだ足りていない(無いのです。)。当たり前のように暮らして、他者と意思疎通を絶えず行っているが、お互いに人権が存在しているだろうか。「人権」という言葉を使うと空疎かもしれない。お互いに人間に対する価値判断(これは何?)(要説明)を持ち合わせているだろうか。この時、宗教は一種の価値判断であるというテーマが挙がった(?)。日本は無宗教である。(そうか?)否、宗教を持たない選択肢をとってのではなく、宗教知らずの国だ。日本というコミュニティは宗教的な結びつきではなく(そうか?天皇制は?)、または思想的な結びつきではなく(そうか?日本人論?)、単なる地理的な近代国家(そうか?地理的無知の国ですが。)である。そこの価値判断基準は概ね、過去における習わし・しきたり・雰囲気である。(そうか?幻想の「過去」では?)
個人的な理解として、宗教的な価値判断は、「動物を殺してはいけない」という決まりがあるとする。「動物の肉を食べるのはどうなのか」という議論に対して、「殺す目的で食べるわけではないから問題ないだろう」という答えが返って来るらしい。「動物」?「肉」?の意味が曖昧なまま、「目的論」的議論の正当性が示されていませんが。ダブルスタンダードな気もするが、文字通りの解釈でなくてもよいらしい。かつて、地動説を唱えたガリレオに対して、コペルニクスは「聖書の解釈と事実は別のもの」という発言をしたことをどこかで聞いたことがある気がする。これら(これは何?)が備わらない我々が自分の周りに気を使って「空気を読んで」しまうのも理解できる。(なぜいきなりKY論の擁護になるのか?説明不足)自らの価値判断に自信がないから、誰かに「正しい」と思ってもらう行動をするのだから、このような変な「以心伝心」を持つ人たちになってしまうのだと思う。最後の結論的命題に根拠なし。もっと説明してください。