遅くなってすみません。椎野ゼミでお世話になっている蛭田です。
秋学期分です。よろしくお願いします。
「少女は自転車に乗って」
B3W41102 蛭田一樹
第一印象としては、当たり前だが女性を大きく貶めている世界だなと感じた。もちろんジェンダー後進国であることは大きくかかわっている。ある一方の立場を蔑む状況を映画としてみるのは非常に心が痛むし、ある部分で、嫌悪を感じている。極楽になるという表現を「複数の美女と交わることができる」という表し方をしていたが、それがまかり通っているのだから、「あたりまえ」なのだろうと思う。ただ、ジェンダー後進国といえば日本も同じである。おそらく、ヨーロッパのジェンダー先進国のみなさんが我々の日常をそうした映画として映し出したものを見たら、同じような気持ちになるのだろうか。日本には同族嫌悪という言葉がある。私はおそらくそれを感じたのだと思う。やはりジェンダー後進国なのである。そして、それを感じたということは私自身もジェンダー的に遅れているということになるのではないか。私自身「あれ、今の発言は蔑視にあたるのか?」や、ものの見方を自ら否定し始めてしまうことがある。ただ、そうした取り組みを続けていけば、続けていくことが遅れを取り戻せるのではないかと信じている。
また、その時に出た話として、「女性専用車両」があった。あれは男性が決めた、弱いものを押し込めるフロアになっている。日本は電車におけるモラルも遅れている。よく、「優先席にすわっていいのか」という議論が中学校の道徳の時間に行われたりする。優先席は基本的に妊婦さんや障害者、お年寄り、けが人など座ることを必要とする人たちのための席だ。そこに「健常者」である「私」が座っていいのかという話だ。私は電車に乗るときに、出入り口から近ければ、そのシートに座ることがある。ただ、ルールを決めている。基本的に、向かい合って6つの座席があるから、このうち、自分が座った結果すべて埋まらないようにしている。そうすることによってどのような効果が生まれると想定しているかだが、まず、優先席の記述があり、場所はだいたい連結部分付近なわけだから、席を一つ空けるために立てば、全員と言わず数人は気づくだろう。それが及ぼす効果は席が一つ空くにとどまらない。私を見た数人は気づくだろうし、その輪が広がれば、見ていた人もそういった問題を考えるきっかけになるかもしれない。椎野先生の、「意識だけではなく行動を変える」というのはそういうことかもしれないと感じた。
「アメリカン・スナイパー」
B3W41102 蛭田一樹
この映画はアメリカが世界と戦っていることを明らかにして、あからさまにしている映画だった。戦争を天誅のような形で用いている。まるで自らを神としているようである。ただ、戦車にスカルを描いていたから、「死に神」かもしれない。彼らは「人を殺す人間」を作る装置―ブートキャンプで鍛え上げられ、人を殺す仕事を引き受けている。おそらく、兵になるまでの過程で、「人を殺す」という明示的なテーマが用いられることはなく、「国を守る」というテーマが与えられるのだと思う。「そんなことでは国を守れないぞ」と言われたら、軍人になる人は概ね国を守ることにある種の崇高さを感じているから、より盛り上がるのだろう。
また、日本では「国を守る」というところで考えれば、安全保障条約とTPPという問題がある。これから日本は人を殺す軍隊を作ることに着手するかもしれないのだ。明治時代にかかれたビゴーの風刺画を思い出す。アメリカとイギリスに突っつかれてロシアに攻撃しようとしているあの図だ。歯向かうところは全く異なる。歴史は繰り返すと言うが、それは歴史を学ばないものにおける内容である。TPPは新たな東アジア通貨危機を生み出しかねないという人もいる。今日の報道で、アメリカのTPPを担当する大臣は「TPPは個人の問題に留まるものではない」と言っていた。国の代表をするTPPの大臣がそのような不透明性を持っていても、とりあえずそっちのけで調印してほしいみたいだ。これは早く決めてしまいたいからの発言なのだろうと感じた。待たされて、待たされて、さっさと行動に移したい気持ちの表れである。お互いにいい貿易を行うつもりであれば、その様な発言は良くわからない。ボードゲームで相手に不利な選択をさせようと口車に乗せている時は、そうしたはらはら感がある。その時の気持ちなのではないだろうか。こんなにアメリカに都合のよいように進まされると心底はらわた煮えくり返る。一国家の意見に従わなければいけないとか、それがどうなのかという問題ではなく、これまでの積み重ねである。なぜ日本に軍を置き続けることを容認するのか。日本はアメリカを宗主国とした、属国ではない。対等にみているのであれば、利用などする気にならないと私は思う。アメリカの独楽遣いである。いくらアメリカが好きでも、それは個人の問題にとどまらない。日本には個人を超えたレベルでアメリカを好んでしまっている事実もあるが。我々は「これでいいのか?」という問いを考えるメタ認知で日本を考える人を選んでいかなければいけない責任を負っている。
「別離」
B3W41102 蛭田一樹
この映画を見て感じたことは、女性がとても多くの発言をしていることだ。
女性が話していた多くのことは、特にラジエーの発言は一人の人間の発言として成立していなかった気がする。ヒステリックな発言が印象的で、その様にしなければ聞いてもらえない場面が多かった。「私はこう思います」と発言しても誰にも聞いてもらえない。だから声を大きくして聞いてもらうしかない。そうまでした出した声は夫に「うるさい!」で一蹴されるわけだけど。ここから感じたのは、両者が自立したうえで発言されているものではないなということだ。私は絶対的な存在を持つことが個人と考えている。家族で一つの単位という、妻がいて夫がいて、それぞれがいるから、それぞれ相対的に存在しているのは個人ではないと思う。お互いがお互いの存在に依存して、擁護しあって、そこでやっと発言していた。対する離婚した夫と妻はそれぞれの意見を言いあって、その結果別れている。お互いが自分の守りたいパーソナルスペースを確実にして、意思を尊重できることは一人の人間である表れだ。
夫婦間における間柄もそうだが、この日本社会には人権という考えが、まだ足りていない。当たり前のように暮らして、他者と意思疎通を絶えず行っているが、お互いに人権が存在しているだろうか。「人権」という言葉を使うと空疎かもしれない。お互いに人間に対する価値判断を持ち合わせているだろうか。この時、宗教は一種の価値判断であるというテーマが挙がった。日本は無宗教である。否、宗教を持たない選択肢をとってのではなく、宗教知らずの国だ。日本というコミュニティは宗教的な結びつきではなく、または思想的な結びつきではなく、単なる地理的な近代国家である。そこの価値判断基準は概ね、過去における習わし・しきたり・雰囲気である。
個人的な理解として、宗教的な価値判断とは、「動物を殺してはいけない」という決まりがあるとする。「動物の肉を食べるのはどうなのか」という議論に対して、「殺す目的で食べるわけではないから問題ないだろう」という答えが返って来るらしい。ダブルスタンダードな気もするが、文字通りの解釈でなくてもよいらしい。かつて、地動説を唱えたガリレオに対して、コペルニクスは「聖書の解釈と事実は別のもの」という発言をしたことをどこかで聞いたことがある気がする。これらが備わらない我々が自分の周りに気を使って「空気を読んで」しまうのも理解できる。自らの価値判断に自信がないから、誰かに「正しい」と思ってもらう行動をするのだから、このような変な「以心伝心」を持つ人たちになってしまうのだと思う。
「モンサントの不自然な食べ物」
B3W41102 蛭田一樹
人の口に入るものを作るということは、作物を育てる過程で使うものはすべてその口から体の中に吸収されると言ってもよい。今回のお話はモンサントの農薬、それと遺伝子組み換え作物である。農薬は言わずもがな、人の作った薬によって畑の生態系を直接的に変えるわけだから畑への悪影響の面は0になることはない。人の手が畑に介入する場合(合鴨による害虫駆除など)もあるが、それらは人体における手の延長であり、足の延長である。
現在では虫が付かないように、農薬を使わないで済む育て方がどんどん開発されている。例えば、室内で虫が付かないように、人工の光で育てる野菜がある。作物の「育ち方」を私は知らないから、どういう経緯で人の食べられるものになっているかがわからない。ただ、室内で育った作物と太陽光で育った作物では直感的に、後者のほうがおいしそうな気がしてしまうのである。なので、もしも市場に出回る野菜がすべてそういう室内で作られたものになるのであれば、断固反対だし、本当に体にいいのか、という議論も巻き起こると思う。私は旧体制から新体制へと変わるとき、自らに利点があるとわかっている状態であればやすやすと受け入れるが、自らに何もかかわりがない時はそのままであることを強く願う。そこから考えられる結論は、「旧体制は正しいものだと思いこんでしまっている」ということだ。太陽光で作られていても室内の電気で作られていても、それらを知らず拒むのはちょっと違う。(でも太陽光の野菜のほうがおいしそう)知らずに拒んでいるこのような事態はいち早く解決していく必要がある。特に知らないということは、プロパガンダに強くなびいてしまうということだ。かつて安全保障の話がtwitter上で盛り上がっている時に、どこかの馬の骨の発言(全然的を射ていない内容)によろこんで私の友人の一人が「イイネ」をしている姿がものすごく滑稽であった。私もそうならないとは限らない。何が問題なのか、どう問題なのか、といたことを選ぶ知識が必要だと強く感じた。
「今度は愛妻家」
B3W41102蛭田一樹
今回の映画で、一番考えたことは「結婚」についてだ。かつてより考えていて、なんで結婚するのだろうという思いがあった。そこでこのディスカッションを通じて、まず気づかされたことは、「結婚から考えるからよくわからなくなる」ということであった。私自身結婚の先に何かあると考えていたから、結婚したら手に入る何かがあると考えてしまっていた。その先に得られる実利的なものと言えば、結局お金でしかなかった。結婚した後に、定年まで働けば共同遺産としての退職金である。夫を支え続けた妻と、働き続けた夫への多大なる報酬金である。または、どちらかがその夫婦の契りを侵すようなことをするのであれば、その違反金として慰謝料を請求することができる。慰謝料が存在すれば、その「たすけあう」関係を侵すようなことをしないと考えたのだろう。飲みの席でも言ったことがあるが、「結婚」とは、「働きマシーン」と「出産マシーン」を生み出す装置だと自己解釈している。ここから脱却する道を私は知りたいと考えた。
一つ目に考えなければいけない事はどのように「自立」するかということだ。将来設計という考えを用いれば、大学で性的、精神的、身体的自立をして、卒業後に働いて経済的、生活的自立をすることができるかということだ。大学では何をすればいいかを考えて残りの一年を過ごしていけるが、2年先のことが全く考えることができない。どんな働き方をするか、どこで働けるか、これは我が文教のキャリア支援課に相談することにする。
二つ目に考えなくてはいけないのは、これら自立をするにあたって、その将来も考えていかなくてはいけない。私はその前提として、誰かと暮らしていこうとは思っている。その誰かとは、探す手段の中でのみ選択できる。私の持っている探す手段は「恋愛」によるものと「似た結婚観を持つ人」だ。それぞれ問題を抱えていて、「恋愛」によって探すと、相手が近代的な結婚に憧れていた場合、私が悩んでいたことの多くが水泡と化してしまう。いわゆる適職ジプシー状態である。後者の基準で探す場合、「似た結婚観」に加えて、何か一緒にいられる理由が必要となる。お互いの好みにかなわなければその生活は破たんしてゆくだろう。むしろ逆に言えば、対話を用いて、お互いの考えを理解してゆけば、さらにそれを長い間行えば、それが新しい「夫婦」になるのではなかろうか。実践しているフシもあるが、付き合ってからでは遅いようである。なかなか難しい。別の相手ともそうした話題を持ちたいが、先方がよくわからないことを言う人だな、と離れていってしまう気がする。ロマンティックラブイデオロギーに「対抗」するすべがなくて、迷っているが、「退行」しないようにしてゆきたい。
「ツレがうつになりまして」
B3W41102 蛭田一樹
働くことについて考えることができた映画だった。ワーク&ライフバランスの重要性を理解していないと、やはり、働くだけの歯車になってしまう。労働者も使用者も人間であることを考えて働かないと、いつの間にか何のために働いているのか、何のために生きているのかわからなくなってしまう。映画にて、主人公の兄の発言はとても聞くに堪えがたいものだった。「男なら家にいる妻たちのために一生懸命頑張って働かないとな!(キリッ)」。その人はきっとこれからもその様に生き続けるのだろうなと思う。どんなにつらくても家のために働き続け、体を壊しても、会社に行くのは何よりも大事で、果ては部下にまでも、「そんなんじゃ働く人間として失格だ。」という理論をぶつけ、部下たちをこき使ってゆくのだろう。私自身教師として働くのか、企業で働くのか、まだ決まっていないが、どちらにせよ、働き方を考えていかないと、仕事が見つからず、「男として云々」のまえに、フリーターという、自分の将来設計に影響が出てしまう身分になってしまう。
「生活と仕事のバランスがとれている」状態とは何かを決めないと、やはりぶれてしまう。自分の判断をある程度確立しないとそのバランスのとりようがない。働いて、生活を営むということは、正直想像ができない。週に5日間朝から晩まで働いて、土日に休むという程度の想像である。これが、ヨーロッパのほうでは朝から夕方までで、時には午後からで、5日間働いていない場合もある。モンサントは「一銭の儲けも逃すな」という経営方針をしていたが、日本もそれに似ているように感じる。たくさん儲けるために社員をたくさん起動させて、社員もそれに応えなくては生きていけないからしっかり働く。では私の守りたい「生活」とは何なのか。一緒に暮らす人との生活であったり、趣味の時間であったり、お出かけをしたり、子どもがいるならばその遊ぶ時間である。日本の雇用の多くはこれらを多く規制しているように思う。趣味を守れなくて、その抑圧感と会社への奉仕で、命を削っている人たちがいる。以前、6時くらいに横浜線に乗った時のことだが、ブラック企業に努めているのだろうか、みな顔を土気色に染めていた。出勤時の風景であるはずなのだが、生気を感じない様子だった。まさに働き詰めなのだなと感じた。また、子どもと対話ができない親もたくさんいる。子どもが起きる前に出発し、子どもが寝てから帰る。気づいたら子どもには何か遠い存在になってしまっていて、ついにはその家族はホテル型の家族(それぞれがそれぞれの生活をしている状態)と変貌してしまい、子どもは塾に預けられ、母は家事をこなすのみとなり、父は言わずもがなである。そのような家庭の家庭らしからぬ状態を産んでしまう。なので、私は「生活」を守ってゆきたい。
「おやすみなさいを言いたくて」
B3W41102 蛭田一樹
この映画の論題となったのは、「子供の育て方」、「女性が社会に出ること」、「フォトジャーナリズムとは」の三つだった。
私がまず興味を持ったのは「子どもの育て方」である。ここでの論点は「子どもを大人にさせること」である。親たちは子供を育てるという意味として、社会に出せるようにするということのようだ。社会がわかっているということを「社会がわかる」とするのであれば、親の責任は親それぞれが考えていなくてはいけない。習い事をさせることや、いっぱい勉強させること、いっぱい自然に触れること、などなど・・・。なんとなく「よさそうだから」という理由で子どもに体験させるのではなく、こうなってほしいからという願いの下夫婦の決断として行わなくてはいけないと思う(私の場合、何となくで習っていたことのほうが多い。)。もちろん親の意思が強すぎてはいけない。習い事や、自然に触れることでどうなってほしいかを子どもと話し、決定するという流れが必要不可欠になってくると思う。私たち日本に住む人間はどうしても子どもを一人の人間として判断できない節がある。子どもが家の持ち物であるという古い思想である。ただ、子どもと対話を行う場合、自分と同じレベルではないことに気をつけながら話さなくてはいけない。とにかく、子どもに「こうすればうまくいくのだ」という押し付けは、同じ親を再生産するだけだということだ。私自身今大人になれているかという点においては、強くうなずくことはできないまでも、「大人ではない」という回答は出ない。軽くうなずくことはできる感じである。大人として、社会の出来事に耳を傾けることはできている。別の映画の感想で「結婚」についてのべたが、ここに「一緒に子どもを社会に送り出せる人」という項目も作らなければいけない。夫婦で取り組むからである。
また、台所で仕事をする父親の姿も印象的であった。いまだ日本では、上手に仕事をこなす夫は、失敗をするというのが常識である。つまりそれは「男は社会には出られるが、家事をやらせれば失敗する」、「女は社会に出る能力はないが、家事は抜群にできる」というテーマがしっかりと残っているからだ。私自身印象的だったということは、無論私もそのような思い込みをしっかりしているということである。これは自分にも影響を与えてしまう。人間慣れで料理でもなんでもできてしまうのに、料理ができれば「すごい」。できなくても「あたりまえ」のような思いこみをしてしまう。だが、私はこのような「おとこらしさ」「おんならしさ」から脱却できるよう努力もしている。常に自分ともう一人の自分で、誰かに向かって放つ言葉(レポートや会話)を確認するシステムを構築している。誤作動や間違いはまだまだあるけれど、それはしっかりと私をバックアップしていて、自分を改善していくことにつながっている。そういった果てしない努力が人生に上乗せされることで、より新しい欧米的な大人らしさにつながってゆくのだと信じている。