この映画では、普通の青年がロシアの兵になり、軍でどんな生活をするのか描かれていた。ロシア兵になった青年は、日常的に上司から暴力を受けていた。辛いブートキャンプを一緒に乗り越えたという、アメリカ兵同士の連帯感が生まれないことが分かった。アメリカ軍もロシア軍もそうだが、兵士になりためらいもなく人を殺せるようになるためには、理不尽な暴力が必要不可欠のようだ。普通の感覚を持ったままだったら人を殺すことはできない。普通の感覚をなくすのにひどい暴力を受ける必要があるみたいだが、これは、自分の考えや意思、感情を否定し続けることで、自分の頭で考えなくなる、ということなのだと推測した。自分で考えなくなることで、人を殺すことに躊躇しなくなり、兵士になれるのだろう。はい、そうですね。(日本も、兵士になりやすくするための「自分で考えない」日常がはびこっていますね。)「自分で考える」ことは、悩みを持つことであり、つらいことであり、めんどくさいことであり、すぐ答えがあるわけでもなく、金にもならず、大変なことなので、考えない方が「楽」ですね。
ロシアの兵士になった青年の物語と同時に、軍に両親を殺された姉弟が再会を果たすまでの生活も描かれていた。両親を殺されたり、弟を知らないうちの前に捨てたりと、戦地で生活しているからこそ起こる出来事が映画には描かれており、こんな小さな子供が(自分で考えながら)辛い経験をしていることがショックだった。ロシア兵になった青年のこともそうだが、国のプライドのために国民が犠牲になっていることが本当に馬鹿らしいと感じた。否、チェチェン紛争は、ソ連の侵略戦争であり、国民を守る防衛戦争なのです。戦闘を「抽象化」して全て反対ではなく、具体的な戦いの姿を理解できるようになりましょう。この映画の英語のタイトルは「The Search」だったが、戦争のない社会を探す、という監督のメッセージも込められているのかもしれない。はい、しかし戦争の実態を理解せずに、戦争のない社会を、望むのは観念的には理想と成りますが、現実味がないですね。