「明日の学校に向かって」
B3W41102 国際学部
蛭田一樹
この映画は現行日本で行われている日本の一斉授業の問題点を解決する糸口を示す映画だった。この授業はイエナプラン教育の一環で、「学校は社会に出るための準備の場」という理念のもとに経営されている。「社会」観の違いを検討しないと、日本の現状に絡めとられてしまいますね。
学校は社会の準備の場であることは自分でも理解しているはずが、一斉授業であること、同年齢集団を「社会」として生活していること、などから、日本の教師の考えている「社会」がここ(イエナプラン教育)で言う社会と離れたものであると考えられる。私たち(who?)の考えている、学校に必要とされる「社会」?は異年齢の組織であり、トップダウン式ではなく、インタラクティブな空間(要説明)であるべきだろう。
その一方で、日本の現行の学校組織は異年齢同士の組織に入る準備期間や、インタラクティブ(?)であるために、インプットを行う場であるともいえるのではないかという考えも、無いわけではない。前者であれば、異なる年齢同士で組織が運営される前に同じ年齢同士で集まり、生活を営むことで、人々の集まりである社会を学習する。そうして社会に出ることの前段階を経験することで、より社会になじめるように経験的な学習を行う。後者であれば、「インタラクティブである」ということは、アウトプット作業(?)の連続だ。「出す」作業を行うためには、「入れる」作業を行う必要があると考える。そのため学校も知識を入れる場として設定されているようにも思える。
しかし上記の理由付けは詭弁だ。異なる年齢集団の中で生きるために、幼少期から青年期手前まで同年齢集団の中で生きることは、そこで学んだ生き方をほぼ生涯持つことになるだろう。前段階での準備ではなく、前段階における完成である。加えて、インタラクティブであるためにアウトプット、という話であるが、これはアウトプットが学校の後にできることを前提としていることが挙げられる。アウトプットができるようになることはとても時間がかかることが完全に失念されているのだ。そうではなく、自分の考えを出すという作業はアウトプットできることと考えるという作業を同時に行うことだ、考えるべきではないか。考えることはできてもそれを言葉にできなければそれは言えないことと同じだ。そうしたプロセスを無視した教育議論が日本では跋扈している。日本の新しい教育に向けての一歩はプロセスと結果を結びつかせる体系的な教育である。最後は、結論の急ぎすぎで、もっと丁寧に説明する必要があります。
全体として、敵とする議論を、自分で再構成して呈示し、その議論に反論していくという書き方は、一歩前進です。反論する議論を自分で構成できることが、重要なのです。