椎野ゼミ課題
圧殺の海-沖縄・辺野古
2015年8月21日
チョウ ロセン
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この映画を見た直後の感想としては、言い争いを記録したものだということにしかすぎない。まず自分は日本人ではないこと、沖縄人ではないこと、ほかの国の軍隊が自国で基地を持つ経験がある人ではないことから、映像にある状況をどうしても理解できない部分がある。「言い争いや、映像にある状況を、当事者でないから理解できない、という理解の仕方ではなく、当事者だけが理解していればよいという理解でなく、世界で何が起こっているのかを、どうしたら理解できるのかという視点を認識できるようになりませんか?」国際学関連の授業で学んだ中心と周辺の関係について、中国にいるときのわたしはどちらかというと中心に位置する。「中心と周辺の視点は、自己を中心に位置づけられるのは、何故可能なのかを問うことなのです。」中心と周辺の関係について連想できる「対立」は三峡ダムの建設である。ダムは主に発電のためである。もちろん、一番受益したのは長江沿岸の都市部だと思う。ダムの建設のために、小さいが、村ごとに引っ越さなければならないことが多くあると思う。ここで、日本人なら共感できないことがあり、それは中国で土地が個人のものではないことである。「これは制度の問題で、民族の認識問題ではなく、資本主義制度に置ける所有、土地の私的所有の制度の結果なのです。」生活した何十年「も生活した」の土地に「から」離れたくない気持ちは今のわたしでは共感できない。「中心のおごりですか?」また、引越し先をきちんと用意できたら、新しい家に「移ること」は拒否できないと思う。(そうだろうか?)事実には、上海の都市計画(道路整備など)で何十年「も住んだ」の建物から離れ「させ」られ、新しく広い家に引っ越した人の多くが逆に引越し補償費用で儲けたことがある。都市計画で新しい家に引越しした人や、儲けた人が中国全国の都市にいる。(もちろん、否定できないのは、引越し補償費用などを全部もらっていない人もいる。)だからこそ、都市建設や、「中心」のために、「犠牲」を「強い」することに深刻なことという認識があまりない。(これこそ、別の意味での「中心」の発想で、儲け第一主義の価値観を前提した発想で、この「中心」以外の視点が持てなっている中心の典型ですね。)しかし、日本の沖縄の米軍基地の問題は違う。まず、それが日本の軍隊施設ではなく、まったく外国「米国」のものであること。これは歴史遺留問題の一つである「?どんな歴史ですか?日米安保条約の問題であり、歴史?ではないのではないか」。米軍基地を日本領土で「に」残る「す」一番大きな理由は日本の国民を守ることである(いいえ、米国の世界戦略のためです)。また、軍隊の費用を抑えられ、経済に回れるという観点(意味不明、説明不足の文です)もある。しかし、第二次世界大戦の後、70周年の中「間」に、日本は一度も戦争に参加することがなく、巻き込まれたこともない。もう、守らなくてもいいではないかと思う「意味不明」。最近の「終戦」70周年記念の報道、インタビュー、ドキュメンタリー、番組などを見てみると、日本国内では、第二次世界大戦では、日本は侵略国だけではなく、被害国(主に原発「?原爆?」の理由で)でもあるという観念がある。ここで、もっと分からなくなった。原発「?原爆?」はアメリカから投下のものであり、アメリカから「非戦闘員が」被害を受けたと考えられる。また、沖縄の上陸や各地の空襲など以外に、日本は第二次世界大戦での被害者という立場が存在しないはずと思う。「敗戦国が、侵略国で加害国であることは事実ですが、この加害国の中に「被害者」がいない訳ではなく、事実、前者のような被害者は存在しているのです。」「なにが分からなくなった」のか、もっと説明しないと分かりかねます。」70年前の敵国を許しても「意味不明」、今以上の「侵略」(沖縄で米軍基地の拡張)は阻止すること「意味不明」が、70年前の戦争で、原発で一般人の死者に一番いい弔いではないかと思う。「意味不明」何を阻止するのかをもっと説明してください。
圧殺の海-沖縄・辺野古
|チョウ ロセン