ペルセポリス
B3W41102 蛭田一樹
「どこに行っても祖国ではない」人間になってしまった物語である。「祖国ってなんですか、説明が欲しいです。」親がマルジの反抗心に危機感を感じてウィーンに留学させる、というとても想像ができない話である。「なになら、想像できるのですか?」そういう話であるがゆえに、この映画は見ていてあまり興味がわかなかったのも事実である。したがって今回は、なぜ興味がわかなかったのかを分析していく。「はい」興味深いです。
この映画を見終わった印象は「そりゃ大変だったな」と、他人事目線で終わってしまった。(いつものことですね。)自分自身よくこの物語と向き合えなかった部分は強い。まず国が違うということが挙げられる「なぜ、(国民)国家主義の発想を前提にしている自分がいるのかを考えてください」。国が違うということは文化も宗教も異なる。宗教が強く根付いているところは最近とても距離を置きがちになっている。「宗教観の脆弱さが露呈してますね」なぜそこまで苦しんで、死後の世界を楽しみにしながら死ななくてはいけないのか。「おどろきの宗教観ですね」そして、なぜそれを真に受けてしまうのか。「あなたの宗教観が貧困ですね」現在を充実させなければ、私は死ぬときに、死にきれないと思う「死生観がナイーブですね」。もちろん、最後の審判は現在の積み重ねの結果であり、現在をないがしろにしていない生き方だということはわかっている「最後の審判」を誤解してますね」個人レベルの話ではないのです」。。しかし、盲信するのもいかがなものか。宗教の怖いところはそういった点で、隣人をどう愛するか、「敵」であることをどう考えれば良いかなど、考えてはいるが、大元の「宗教を信じる」というところに何の疑いもないのである「信についての考えが、素朴ですね、素朴な個人を立てて、そこに還元して「信」を考えていますね」。信じなければ宗教に入るということになるわけではないから、その入り口を狭める必要はないわけだ(宗教のイメージがカルト宗教になっていませんか)。むしろ信じるならば、よくわかっていなくても大歓迎といった節がある。宗教が利用される手段として、簡単に所属の欲求を叶えられること、宗教のベクトルは個に向いているため、団体として動かされている意識がない。自己を実現しているという妄想に浸ることができる。そのリーダーとなった者は多くの権利を得る、という言葉が挙げられる。他の考え方を排斥したいわけではない。しかし、宗教という構成に権力の構図くらいしか見えていないため「意味不明」、認めるということが容易くできない。「カルト宗教以外の宗教観をどれくらい持てていますか?」「幼稚な「宗教観」で、宗教を毛嫌いして、「宗教」を超越したと思っている人が多い日本ですね。」
話はやや脱線してしまったが、こういった宗教や、お国柄の映画を食わず嫌いするのではなくて、とにかく見てみて、どうして嫌いになるのかを分析してみるのも、自分の好みや、考え方の偏りを見つけることができて面白いかもしれない。はい。次に「ペルセポリス」のような映画を見るときには気をつけてよく見ることが重要だろう。
「もう一回観てみませんか。そして映画のコメントを書いてみませんか?」