圧殺の海
B3W41102 蛭田一樹
この映画は私の中で、とても印象深いものの一つだ。黙ってしまうと静かに圧殺されてしまうから声を上げなければいけない。でもそうすると痛い目を見させられる。政治は何をする機関なのかをもう一度考えたい。(その回答は?)
映画上映会に友人を誘ってみて、彼らの感想も聞いてみたが、「一つの見方からしか見ることができなかったのは残念だ」と言っていた。「これは、日本の人が自己正当化のためによく言うせりふで、なにか絶対的な「中立性」「平等性」があることを前提に、自分がその立場に簡単に立てると勘違いしている人がよくこう言って、結果的に現状維持を推進していくようですね」ただ、やはりこれも「チェルノブイリ・ハート」と同様に、見る人に啓発をする目的の映画ということが言えるので、見方の偏りは問題ではないと判断できる。「はい、そうですね、偏っていない見方などないのですよ」この沖縄の問題を彼ら海上自衛隊から聞こうとしても、詭弁がかえってくるだけだろう。闘いの記録として残っていることが目的であり、民衆目線であることが意味を持つのである。沖縄の民衆はこうして戦っていると伝えるべき映像なのである。「はい、民衆とは何かも考えて行きましょう」
この映画は、また、私にデモに行く決断を後押しする映画でもあった。(はい、超越的な絶対的な正解など、だれも教えることなどできないのです。それを待っているようにされているのが日本の教育を受けた人(大学生たち)なのです。)この時期と前後して阿部首相の安全保障に関する法案へのデモが熱くなった時期でもあった。国民であるために、声を上げるべきか否かをとても悩んでいた。しかし沖縄は黙っていた「黙っていた、は事実誤認です」ために基地を建設されてしまった。今は同じ歴史をたどらないためにその戦いを続けている。首相のアメリカナイズされた頭はどこまでいってしまうのだろう。「あなたの頭もアメリカナイズされていませんか?」まだ自分自身デモに行けてないのが多いに悔やまれる。変えたい行動ができないほどにすることがある。暇さえあれば行きたいところであるが、それができない。もしかしたら変化をめんどくさくなっているのかもしれない。友人の中には「どうすれいいかわからないから行かない」と言っている友人もいる。しかしそんなことを言っていたら、どうすればいいかわかった時にはもうそれが共通の見解になっていて、どうしたいと言う間もなく圧殺されてしまうだろう。「はい、そうですね。分からない自分は、「分からない自分」として構築されてしまっているのです。」「みんな」がどうなっていくのかを見ているうちに「日本人」らしく、流されてしまう。「はい、「日本人」にならないことが肝要なのです」口を閉ざすことになれてしまわず、行動をしていくことを始めたい。社会学的な見方は時に変人扱いされてしまう。結局何をしたいのかわからないといわれてしまうことがある。(そんなことはありません。分からないのは、分からないと言っている人なのです)何がわからないのかを話し合って、お互いの見解の交換をすることで、一方的な「教え」となってしまわないように注意しながら向き合いたい。話しあえば、分かり合えるわけでもないのです。共通見解をもつ必要もないのです」日本人としての当事者意識を持つことを念頭に生きていきたい。「日本人」を念頭に置かなくてもよいのです。