しわ
B3W41102 蛭田一樹
老いとはどういうことなのか、年を取るとはどういうことかを問いかけられるような映画だった(アルツハイマーもテーマとしてあります)。ある介護老人ホームでの日常を切り取った物語である「だれでもがホームに入れるような前提となっていますが、現実は異なります。」。とても自分自身この映画を見ていて目をそらしたくなってしまった部分もある。つまり私は老いることに対して恐怖を持っているのである。「若い」方がいつまでも優位に立てるということだ「その幻想にはやく気づいてアンラーンしてください。」。そしてその若さは限界を知らない。「まさに妄想ですね」
あるときテレビでモスキート音が聞こえるかの実験をやっていたが、その実験を行う医者のような人が「なんでも聞こえればいいというわけではなくて、自分の年齢に近いものを聞こえることがよい」と言っていた。「この音聞こえるのー!?すごーい!!」と、何でもかんでもすごいと言っている人もいたが。
これは個人的な見解であるが、モスキート音を人生に例えるならば、若い人ほど聞こえる音が老いているのに聞こえてしまったとき、それを人生で経験していなかったということ捉えるべきではないのだろうか。むしろ老いるほど聞こえる音を聞こえたほうが…と考えるのはそれも過ぎた考えである。年に近い音、つまり年相応であるということがいかに大事であるかであり、きちんと年を取れているかが重要である。「この年相応のイデオロギーを理解できてますか?」ただ、その年の取り方という考えがとても難しい。発達段階説を理解するのか、否か。しかし、熟成できていないチーズはおいしくない。年を取ったワインもその年の取り方(保存環境)でその味が変わってくるようである。年をとることは怖いことであるが、それは年と逆行して「ワカさ」を追い求めるが故である。老いに向かって進む、むしろ一日一日老いていく、という自覚を持つことが円熟できる秘訣なのだと思う。「若さ=馬鹿さを前提に、その前提の上で、きちんとした「老い」を奨励する発想は、年相応でない「老人」を排除するイデオロギーに簡単になりえます。「老」と「熟」は、別のレベルのことで、「老熟」として、合体すると、イデオロギーになるのです。蛭田は、割とイデオロギーにとらわれているようです。」
私はこの先の人生に見通しを持っていない、ということとむしろどういった人生になっていくのか考えられないということもある。どんな職業について、どんな暮らしをして、どんな最期を迎えるのか、すべてを予想できていればいいのだが、あいにくそれはできない、できるとしても鶏が先か卵が先かという議論もある。「人生の基礎知識をこれまでの教育が与えていないので、考えられないようになっているのです」人生と教育とは別だという教育観が蔓延っています。明日不慮の事故で死ぬかもしれないし、「まっとうな」人生を歩むかもしれないし、途中からくいっぱぐれて稼ぎがないまま路上でくたばってしまうかもしれない。日本国民全員が全員お金を稼いで、全員幸せになることは現状難しい。以上の教育観を前提に、「人生観が抽象的で、一般論的ですね」しかし、それぞれが満足できるくらし、自分の満足を目指すことはできると考えられる。満足できるように暮らすことが「老いる」ということにつながっていくのだと考えている。「これくらいで満足するようにとの人生観をつくらされているのが、日本に住んでいる人の大半になっていることの現状を理解できるようになりましょう。扱いやすい日本人の再生産ですね。従順な日本人。
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