パレード
B3W41102 蛭田一樹
この映画は友人と見てひとりで見てゼミで見て、三度見たが、その場その場で思うことが変わった映画だった。
友人とみたときは、ちょうど寮で生活することが面倒くさくなっていて、「集団生活しているほかの人はこんな風に思っているのだ」と、言えないけれど秘めている時期だったということもあり、一言一句ですら聞き洩らすんじゃないぞと思いながら見ていた。「高校生レベルの幼い「寮」という集団生活の強制性に雁字搦めになっている時期の感想が、唯一の感想のあり方ではなく、集団生活観も見直すことができるのです。」彼はいい大学に行っているというのに、「う~ん、なんか難しい映画だね」という感想だった。「映画」はだれでもが観れるわけではないのです。「いい大学」って何?蛭田には「いい大学」コンプレックスがありますね。
ある程度以前本で読んだことや自分自身の感じ取ったことを述べてみたが、わかってもらえたのかわかっていないのかわからない様子だった。その時は朝5時をまわっていたために、眠いということもあり、朝ごはんを食べて寝てしまった。彼はそれ以来忘れてしまったようだった。「このレベルは、世俗的な感想レベルで、感想にもなっていませんね。」
次はゼミで用意するために、半年ぶりくらいにそれを一人で見た。その時に思ったことは、友人に、さも自分が苦労しているかのように見せてしまったのだな~と少し反省をした。(自分が何に苦労しているかは人によって異なり、認識も人によって異なり、共有できるとは限らないのです。みんな一緒だと思っているのは「幼さ」です。自分の「苦労」は自分で苦労でないと気づくしかないのです。)「パレード」において大事な言葉の一つである「ユニバース」「マルチバース」の話を完全に押さえていなかったのだ。当然彼ら一人一人が一人一人に対して持っているイメージは違うし、無論私が彼に持っているイメージは彼の持つ私のイメージとは異なるわけで、それを教えたかったのだが、マルチバースである以上その存在を知ったところで、彼の宇宙は広がるだけであり、私の考えているところを知るにいたらないわけである。自分で周りの世界を変えたくて(そんなことできると考えているのですか?)何かアクションを起こしたくてもその世界に干渉をし続けないと変わることはないのだろう。「その世界自体の把握ができてないところで、その世界を変えよう、干渉しようという考えは、どこから芽生えてくるのですか」一人で見ることで以下に???思い上がっていたかを自覚した。「自他関係」のあり方の認識を、高校生レベルでとどまること無く、大学生的認識ができるようにしていくのが、大学生です。
最後にゼミのメンバーと見たわけだが、ここで私のみならず皆が驚いたのは苗木日菜の見方であろう。(苗木の見方に驚いたのではなく、苗木が自分の見方を発言したことに驚いたのです。)まさか藤原竜也が多重人格であるとは私も思わなかった。マルチバースという言葉の重要さをここでも認識してしまうわけだが。この映画で私はゼミで見る意味を見出し、ディスカッションの面白さがまた一つ増えたと認識できた。映画は見方と考え方を更新するための道具になり得るということだ。こうして振り返ることでまた再認識できる。映画はアンラーンを一番自分に施せる方法だと考えた。「はい、アンラーンをたくさんしてください。」