「Zero Dark Thirty」を見て
B3W41102 蛭田一樹
この作品は「刷り込む」ということを実に上手に行っている。「以前からそうだったでしょ?」と我々の生半可な知識を強化してくのである。そして「一番知っている我々がこう主張するのだから間違いない」とばかりに世界を背負ったような映画を作っている。我々の恐怖心をあおりたて、世界共通の敵のように認識させる。大義名分を作り上げ、世界がアメリカに続くような構造を作り出そうとしている。気づかないように、気づいてはいけないことを違った側面から露わにしてねじ曲がったことも許されるようにしてしまうのがこの映画だと感じた。「アメリカCIA御用達のハリウッド映画なのです」マスメディアと国家戦略が一体化しているのが、アメリカ映画の特徴なのです。」
昨今は情報量が多すぎて、一つ一つを処理するのはとても大変である。何が正しい情報かと判断している間に次の情報が入ってきてしまう、そしてその間にも時代が変わってしまう、今はとりあえず情報を飲み込むしかない状態が続いている。情報を持っている人こそ情報弱者の名前をいただいてしまうこともあるくらいである。『メディアリテラシー』というのもおかしな言葉である。なぜ情報を判断する能力に名前がついて、それをもっともらしく学校で教育されているのだろうか。「実は、メディアリテラシーという言葉は、そうゆう意味ではないのです。日本語バージョンの理解です。」身体的な能力で言えば「咀嚼能力」を教えてもらっているようなものだ。「その程度の誤解しか学校教育では与えておらず、現代社会におけるその重要性を学校の先生も理解できてなく、さらに日常生活でそれを実践できる人もほとんどいないのが日本の現状なのです。」情報を判断できる間もなく情報を手に入れられてしまう担安つ???を与えているのは誰だろうか。便利であるがゆえにろくに考えもせず与えてしまう。「便利さ」による国民操作はいたるところで行われています。」なぜこのような「刷り込み」がこの映画で簡単に行えたかというと、その様に情報を判断する間もないこと、情報を入れるだけならばできてしまう(そう誤解できるようにしていること)こと、情報を持つのは大人だけではないこと、これらの要因からみんなの「ぼんやりとした悪人のビン・ラディン像」を太く強く輪郭を描き、きれいに色を付けていくのである。「ビン・ラディンを殺せ」というタイトルでは誰も関心を持たなかったものが、「ゼロダークサーティ」に変わることでこの時間に戦った英雄たちという神聖視も可能になってしまうのである。
さらに今では「正しい」ということが何かということも揺れてきている。これまでより多元的な見方ができるようになっているため、むしろ多元的にみなければその複雑さがわからないため、「情報」に対してある程度、出所とその時期をわかっている状態で取り入れるのがよいかと思われる。あまり多くに手を出さないである程度の情報制限をかけたいところである。「まさに情報操作される優等生を蛭田は実行しているようです。」