ジョバンニの島
B3W41102 蛭田一樹
とても童話的な作品だった、というのが一番の感想である。正直このストーリー自体あまり僕は好きではない。ありえないほど無理をして、ありえないほど好都合という状態があまり自分の身に起こりえないからである。映画は第三者として体験するのが目的であると考えているため、自分の身の丈に合わない映画はどうしてもフィットしにくい。「この映画の見方が、映画をつまらないものにしていますね。」ある意味、「学校教育」的映画鑑賞しかできない学校の先生の映画の見方ですね。」(映画に限らず、すべての現象についても同様です。)
それに加えて、フィクション感が半端ないのである。このレポートの前にキアロスタミ監督の「ライクサムワンインラブ」のレポートを書いていて、その影響もあるのだと思うのだが、この映画は、王道をしっかりこなした映画のようになっていて、ある意味しっかりと作られてはいる。作画自体はとても素晴らしく、見ていて、「きれいだなぁ、いい音楽だなぁ」と思って安心して楽しめたのだが、どうしても別世界観が強い。戦争という題材を扱う」以上、未来に「戦争」の現実感を与えなくてはいけないと思うのだが、それが伝わってこないのである。「蛭田の現実的「戦争観」が、逆に紋切り型「戦争」観になっていないか?「戦争」的戦争観しか、戦争観として認めないような認識になっていませんか?」戦争があった時代、国民は戦争を是としたものとして動かされていた。戦争という流れに身を任せる烏合の衆だった。今もまだその様に、敗戦後???の「耐え難きを、耐え~~」は何を耐えたのだろうかと思えるほど、当時を反省している様子「当時とは何時で、誰の反省のことを考えているのか?」は鑑みられないと私は考えている「非常に歴史観が単純ですね」。現在は「積極的平和主義」という名の下(どうゆう意味か理解していますか?)我々の政権は動いているわけだが、その「平和」という盾は矛となって刺激してしまってはいないだろうか(要説明)。そして我々国民「我々国民とは誰のこと?」はなぜこれほどまでに放置して、無関心を極めているのだろうか。どうしても政治と国民が別々に動いてしまっているようでならない。「国民」って誰のこと?そしてその政治のトップは「国民主権」を知ってか知らずなのか、私が最終決定権のようなことを言っていたようである「そのリーダーを選んだのも国民主権の国民では?」。ただの全体主義国家のリーダーである。近代化の「他の仕事はお前の責任でしょ」(意味不明)という分業化の影響だろうか。そのために、国民は国民として精一杯で、政治は政治家に任せておくという状態になってしまっている。国民」って誰のこと?「脱近代」(意味不明)として生きていくという言葉は空疎に現代を駆け抜けていってしまうのだろうか。もうすこし、一つ一つの言葉の意味を理解して、論を展開する癖をつけてください。ことばの使い方が雑です。