「ライクサムワンインラブ」について
B3W41102 蛭田一樹
この映画は椎野ゼミで一番初めに見たものだ。椎野ゼミにおいてこの映画の果たした役割はゼミ映画鑑賞の一コマだけではないと思う。多くこの映画はとても日常であった。何が始まるわけではなく、「結末」らしいものがあるのではなく終わった後にもう一度始まっても違和感はないだろうと思われる。そしてその日常を切り取る方法もとても興味深かった。窓の使い方がとても上手で、心情を映すような方法や、人間関係の表現する方法がきちんと表現されている。「窓が開けられる」(「窓が閉じられている」)ということと、「窓が割られる」ということが差別化されて表現されている。窓の役割はそのまま人間関係のはかなさを表している。「割られてしまった」ときは、ちょっと手を離したすきに人間関係にヒビと亀裂が入ってしまい、一瞬にして割れてしまう。「窓を開ける」ことは日本人の人間関係への配慮のことだろう。それは最初のバーのシーンと、車に乗るタカシに声をかけるヒロアキのシーンと、全体的に、話しかけてくる隣人だ。日本人は確認することなく、あまり他人との関係に口出しはしない「窓を割ることはあっても、開くことはない、ということか?」(それ以外のよもやま話はあり得る「よもやま話レベルでなく、呈示するのも書くことの訓練です」)。見えたように、ガラスの向こうから見えたように判断して、その人間関係を維持しようとする。監督がイラン人であるということは、男女関係にものすごく厳しい国の出身である。それが日本で、売春婦がウェディングドレスを着るだけで「お嫁さん」になれてしまったり、お金を払えばデートができてしまったり、ということを目の当たりにすれば驚かないことはないだろう。だが、その真実が露呈してしまったとき、我々はとても面食らった状態になってしまい、逃げたくなってしまう。映画の最後で、タカシは倒れてしまっただけだが、もうあれだけ繊細に、触れないように触れるように人間関係を形成していたのにいざその関係が窮地に立たされた時に何もできなくなってしまう、とても自分自身にも自覚ができる話だった。人間関係を我々は築いていなくて、他の、それぞれの向き合う他人との関係(他人関係)を築いているのではないだろうか。「はい、そうですね。」他人事関係かな。それに居直る、のでよいのでしょうか?