(瀬島)
作中に出てきたマルジの家族は、個性的な人たちだった。反政府主義のおじや、投獄された祖父、自由主義の両親、ブラジャーにジャスミンの花を入れる祖母など、みな個性的だった。「個性的」って都合のいい言葉になっていませんか?自分が理解できていないことを「個性的」だと、名付けて、自分の外の現象にして「他者」化して、そして「個性的」でない自分を、現状維持する言葉になっていませんか?特におじは反政府主義者として政治活動し、最終的に逮捕されてしまったことは印象深かった。自分の生死がかかっているような危険な活動をよくやるな、と感心した。これが「個性」化の権現のことばですね。要は、徹底して他人事なのですね。日本人は政治について自分の意見を発する人はいままで少なかったように思うが、現在では、安保法制の問題や普天間基地移設問題で声を挙げる人が増えている。一般人が政治に関心を持つことは、政治家が自分の思い通りに事を進めて市民の声に耳を傾けない、なんてことにならないためにも大切なことだと思う。政治において「一般人」人がいるという認識はどこからくるのでしょうかね。「政治」を特別視して、その特別なことに関わらない私を、一般人と命名して、特別なことへの無関心を正当化するようになっていませんか?
マルジの生き方を見て、これから彼女が「まとも」に生活できるのか心配になったが、「まともな生き方」があるものだと思い込んでいた、ということに気が付けた。「まともな生き方」に気を取られて自分のしたいことを我慢するような生き方はしないようにしたい。「自分のしたいこと」ついて他の人は基本的に無関心です。問題は、「自分のしたいこと」など、ほとんど人はしていないし、それについて、追求はしないのです。それは「自分のしたくないこと」をしないことを実行することの方が、困難であることを隠す方便になっていませんか?
この回のゼミでも「失われた20年」や「反知性主義」がキーワードとして出た。今何が起こっているのかを理解するために「失われた20年」を考え直す必要があるのだろう。「失われた20年」は、バブル崩壊後から現在までを指すそうだが、何が起こったのか把握していないし、何が失われたのかも分かっていない。どんなことが起こったのか一度洗いなおしておこうと思う。はい、ぼちぼち始めてください。20年を理解するのではなく、今日的には、70年を少なくとも理解する必要はあります。「反知性主義」についても、何度かゼミで取り上げられていた。「反知性主義」とは、知性があることに否定的な考え方のこと、という理解でいいのだろうか。無知蒙昧で、自己肯定できる考え方です。「反知性主義」は、いろいろな意味がありますが、それをひとつひとつ理解するのも勉強です。今的意味は、安倍のように、「知らなくても」「論理に矛盾があっても」何食わぬ顔で、生活できるようになっていることです。今の日本の学生さんのようでもあります。ゼミに参加していると自分の知らないことがたくさん出てくるので大変だが、夏休み中にできるだけ、ゼミでわからなかったところを見直そうと思う。はい。