(瀬島)
この作品を見たときに、たくさんの奇形児が生まれるのが当たり前になっているのかと思ってしまった。「当たり前」がどのように構築されるのかの一例です。作品を理解するには、その背景に何があったか知っていないといけない。はい、物事は、その「背景」と共に理解するくせをつけてください。映像に振り回されないように、知識を増やさなくてはいけないと感じた。「知識」に問題を還元してしまうと、「知識主義」になってしまい、何のための「知識」なのかを考えてなくなってしまいませんか?
この作品は、見た人に原発事故の影響や、これからの原発の在り方など、一人一人考えてほしかったのだと思った。監督自身が障害を持った子供のもとにいく映像や、当事者が故郷に帰る映像を映画で使うことで、被曝の問題が他人ごとではなく、身近に起こりうる問題だということを主張したかったのだと思う。それもあるでしょうが、「被曝」問題とは何なのかをそもそもから考えてみませんか?日本にも原発がたくさんある。福島第一原発事故も起き、自分の身に降りかかっている問題であることを自覚しなくてはいけない。はい、優等生的答えですね。また、被曝の影響は長期的なものだと考えないといけない(はい、そうですが、短期記憶しかない日本人にできるだろうか?)ものであること(ということは、何を考えなければいけないのかを考えてください。)が、作品がつくられた時と事故が起こった時の時間の差からもみてとれた。日本人はこのような作品を作れるのだろうか?
作中、孤児院に預けられた多くの子供たちが登場した。障害を持った子を育てるのは障害のない子に比べお金も手間もかかる。障害のあるなしで、子育てを考えてよいのだろうか?お金・手間は、誰が負うことになるのか?手厚い行政サービスがなければ、育てるのは簡単ではない。「行政サービス」とは何か?その考え方をアンラーンする必要はないのか?障害を持った子でも持っていない子でも、十分安心して暮らせるように行政サービスが必要だと感じた。また、行政が働くためには、市民が十分税金を納められるくらい一般市民が働ける環境がなくてはいけない。納税問題だけでなく、「税」とはなにか、「税」の再分配とはなにかを、考えてみてください。一般市民が、社会の再生産には子供が重要な役割を果たすことも知る必要がある。なぜ、「重要なのか」を考えてみてください。