「プリティーリーグ」
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蛭田一樹
まず先日の議論ではこの題名について違和感を覚えませんかという議題があった。あれは男性が決めたものということだった。日常にはたくさん(カット)男性にイメージづけられたものがたくさんある。男性の行うスポーツは、例えばサッカーは「サッカー」であるが、女性が行うと「女子サッカー」になる。「普通の人」がこの私の疑問を聞けば、「これまでサッカーは男のするスポーツということが定説であるのだから、女子サッカーと称さなくてどう女性がするサッカーであると伝えるのだ。」ということであろう。はい、「定説」にどのような前提が置かれているのかを考えましょう。
ここで「普通の人」がどれだけ「男性社会」に慣れているかということだ。はい。自らがどれだけ染まっているか認識できていない人が多いはい。スポーツごとになぜそこまで「男性」が目立つとよくないのか(意味不明)。私自身つい最近までわかっていなかった。しかし、今は自分の答えらしきものの片鱗は持っていると思う。スポーツとは近代において男らしさを見せつけるものであった(はい)。女性は家事をして、「女性」になっていき、男性はスポーツをしていく中で、自分を鍛え、強くなって「男性」になる。(それゆえ、こうした「男性」でないのが「女性」だという女性観が形成されるのです。)こういう見方をし続けるとどうなるかというと、さまざまな生き方をする男性、ないし女性を認めなくなる。これは差別を助長するものであるし、その見方そのものが差別である。(「差別」とはなんですか?「差別」の指摘が議論の終点ではなく、出発点です。)
このように、慣れてしまっている中で隠れているものを見つけるのであるから、日常生活で気づくのは難しいだろう(はい、よい気づきです。)。そのきっかけを作りだすものとして、私は試していることがある。それは日常生活で自分の使う言葉を選ぶことだ。悪く言ってしまえば、椎野先生にどういう意味で言ったのかと質問されない言葉を使うことである(はい、よい傾向ですね。言葉に注意を払うことは。)。例を挙げるとすると、「普通」という言葉を使おうとしたときに、何を基準にして「普通」であるのか、「普通」を表す規準は何なのか、ということである。「普通」という言葉は意味もあいまいであるし、「意味がはっきりしないまま発した言葉は当人の伝えたいニュアンス未満の意味しか表さない。」と私が考えているということも関係している。はい、そうですね。こうして物事を伝えることで、自分の語彙トレーニングにもなるし、相手へ伝達する言葉もはっきりとしたものになる。はい、語彙トレーニングは、思考トレーニングなのです。映画「プリティーリーグ」を見て、より正しい言葉を使おうと思ったし、「考える」→「言葉を発する」といったプロセスをより重要視することは間違っていなかったのだなと考えられるようになった。はい、このプロセスを実践してください。
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