「ビン・ラディンを探せ」をみて
B3w41102
蛭田一樹
映画はまず監督のスパーロックの妻が子どもを妊娠するところから始まる。子どものために危険をなくしていくという”アメリカ人”らしい発想で、ストーリーを作ったのある。
自分を善に見立て、相対的な悪を危険とみなす。人間は気づかないと自分を絶対的な善と思いこんでしまう。それは私も同じで、たとえばISISの行うことは武力で統率していて、介入してくる他国の人間を殺してしまう側面がある(国を侵略・攻撃してもいるのですよ)。私はそれを絶対的な「悪」と考えてしまう。私は私の信じる「善」があってそれをもとに彼らを「悪」と考える。したがって(?一方で)、彼らの行動の基となる正義と「善」があって、彼らは自らを「善」と考える。双方が「善」であり、相手は「悪」という二律背反の事象となっているのである。単純明解は二分法の分かりやすさとおかしさを理解しましょう。自分側と相手側はそれそれ一枚岩ではないのですが、二分法は単純に二分します。この事象は双方が平行線であることを維持しているためそれぞれが存在し続けてしまう。あなたがその二分法を維持しているかぎり。
一つの解決策として「歩み寄り」が存在するのであれば、こちら(どちら?)からまず踏み出そうとしても難しいのだと思う。だが、何の気なしに(???)武装解除し、あちら(どちら?)から近づいてくることは、やはりこれまでの体裁(?)から難しいのだと思う。某国(?)がそれを好機に攻めることもないわけではないだろう。事情は幾重にも層になって複雑な体系を持つ存在として膠着してしまっている。(これまでの冷戦構造的対立のままの対立観ですね。)
では、やはり平行線なのだろうか。私は元より日本人であり(日本人って何?)、彼らや某国人(これは何?)とは考える物差しが全く以て異なっている(そうだろうか、国民毎に考え方は違うのだろうか?)。ゆえにそれぞれがそれぞれの物差しで測ろうとするところに平行線が存在している。(それぞれは、その中で一枚岩なのだろうか?)それは日常生活に落とし込んで考えると同じ国の人間にも言えることで、それぞれ(これは誰?)が各々の「信条」を持つ(「信条」って何?)。周りの議論をする相手と「他人」を考えることが身近な第一歩となる「グローバル」ともいえるのではないか。(意味不明)”global”の指す「世界的な」という意味は、地球全体を指すこともあるが「自分の世界」ともいう(意味不明)。自分の構築する「世界」を拡げることが「グローバル化」とも言い得ると思う。昨今では自分を枠の外においた「グローバル化」が話を進ませている。(意味不明。)外国人が日本に来るという内容だ(?)説明不足。そうではなくて、「私たち」が各々の世界を拡げてこそ始まるグローバル化だと私は考えている。自分の世界を広げることと、グルーバル化の関わりをもう少し説明してください。
ビンラディンを扱うこの映画については、何を考えましたか?