(瀬島)
この映画は、第三者目線で見えるようなカメラワークがされていたのか、作品の世界に入り込んで観るのが難しかった。食事や個々の部屋のシーンを描かず、浮世離れした生活を表現していた。タイトルがパレードだったのも、日常から離れていることを暗にあらわしているとも思えた。はい、パレードは、paradeでなく、parallel world パラレルワールド(「パ」ラ「レ」ルワ「ー」ル「ド」)略のパレードだという説もあります。並行世界(=もう一つの世界)なので、現実離れしているのかもしれません。
この作品で監督は人間関係の希薄さを描きたかったのかなと思った。彼らは一緒にいる空間を壊さないようにして、深く互いを理解しようとしない関係を築いていた。直紀が連続婦女暴行犯かもしれないと疑っていても、関係性を壊さないことを重要視して、ルームメイトはそのことについて特に言及しなかった。自分と他人との関係性にしか興味がなく、ルームメイト自身には関心がないような人たちだった。
深い理解のない希薄な関係を描いた映画なのでしょうが、その「自分と他者との関係性」においても、表面的な、当たり障りのない「関係性」を維持するのに始終していて、関係の質的転換を予期させるものは何もないのが特徴ですね。
作品のキャッチコピーが「共感するものに、闇が訪れる」だったそうだ。相手のことを深く知ろうとしないで関わることに警告するつもりでこの作品を世に出したのかと感じた。はい。うわべだけの関係性を続けることは、別に悪いことではないし、個人個人の人とのかかわり方の違いである。スムーズに事を進めるために人と深く付き合わず、秘密を知っても自分に関わりがなければ気にしないという人との関わり方に共感したからといって、闇が訪れるといわれるほど悪いことなのだろうか。深く人と付き合うのも浅い関係を続けるのも人それぞれで、人と深くかかわることがいいことであるという価値観を押し付けられているような気がする。はい、お互いの自己の中に「闇」や秘密があるのを前提とした、「うわべだけの関係性」を、肯定的に捉えるのだが、浅い関係/深い関係の二分法で、浅い関係を擁護することにおいて、この二分法的関係でない<関係性>の存在に気づかないままの人間関係を生きてしまう日本人が、垣間みれれますね。
パレードというタイトルについて、直紀自身は自分が先導者だと思っていたが実は従者にコントロールされていて、みんなを率いているわけではないことを示している、という意見があった。従者がいるからこそ先導者は先導者になる、という意見は同意できる。はい、その点においては。ただ、ルームシェア生活を先導するリーダー的存在を直紀が担っていたかは疑問だ。直紀はちょっと頼れる兄的存在ではあったかもしれないが、直紀中心にみんなが生活していたわけではないし、みんなが同じ方向性を目指していいたわけではないから、ルームシェア生活に先導者がいるという考えに自分は同意できなかった。彼らが現実離れした日々をだらだらと過ごしていることをパレードにとらえた、といわれたほうが自分的にはしっくりきた。先導者といっても、立派なリーダーということではなく、この場合は、単に「家賃」を支払っている人のことなのでしょう。社会人になると、「家賃」の問題は大きな生活問題です。この点において、直輝が家賃を支払うことを前提に、このルームの住人の人間関係が成立しているのであり、この前堤がなくなると、人間関係もなくなるのであり、住人たちはこの打算的人間関係(だらだらとした生活)の維持力に長けており、全力をあげて集中して、この関係性を維持しています。このレベルの人間関係の維持力が異常に発達してしまったのが、日本社会の人であり、あなたですと言われたら、あなたはどう反応しますか?