(苗木)
私は、この映画を見ていて、直紀が彼女に2人で住んでいてももう一人いる気がするというようなことを言われていたあたりから、この映画は多重人格の話なのかなあと思って見ていて、女性に暴行していたことを同居人が知っていたり、ラストで「直紀も行くよね」と拒否権がないような言い方をされていたことで、この同居人たちは直紀が作り出した人格だったのだと思っていた。多重人格説は、興味深い解釈ですね。「多重人格」現象に関心があるのであれば、「多重人格」について確かなことを調べてみませんか。
多重人格は、お互い同士の「人格」の交流はなく、「直紀」のような超越的「人格」が形成させるわけでもないのです。
ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン』早川書房、や哲学的な考察/イアン ハッキング 『記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム 』早川書房や、心理学/精神科医などがいろいろ分析しています。
日本は、欧米のように単一の「人格」アイデンティティを形成させるのではなく、場面的「人格」を場面ごとに形成させ、場面を超えた「単一」のアイデンティティに価値を見いだすことはありまなく、その意味では「多重」的人格を持たせる文化なので、「多重人格」には、病理現象ではなく、日常的なリアリティがある現象だと思われます。
ルームシェアという設定自体が、多重人格の人格たちが1つのからだを共有していることを表していると考えたため、私は、生活感や、それぞれの部屋が描かれていないことにも、疑問を持たずに見ていた。
はい、多重の人格の上に超越的な「人格」(たとえば「直紀」)を成立させようとすると、精神的な破綻が生じてしまうことを、描いた映画なのかもしません。アイデンティティを中心とした「生活」観も、部屋もない、というリアリティは、ある意味、日本的なのかもしれません。(社会学的には、このことを批判的jに考察して欲しいのですが。)
そのため、議論に入っても誰も多重人格の話を出さないことに私はとても驚いた。他の人と、意見が違うのが当たり前という感覚を持って欲しいのですが、「場面的」人格をもってします日本人は、その場面(このゼミ)ではみな同じ意見をもっていると見なしてしまっているのが、日本的現象なのです。「場面」的人格ではない、アイデンティティ的人格を、多少、持ってみませんか、というのが社会学なのです。
こんなにも、見方が人と違った映画は初めてだったので、おもしろかった。
はい、これからも人と違った見方をしている「自分」を沢山、発見してください。