(瀬島)
今回観た映画「ビン・ラディンを探せ!」はアメリカ人の、自分たちは(世界のために)いいことをしていて誰からも愛されるヒーローだ、という集団妄想を壊す映画だった。人間誰しも自分が間違っているなんて考えない(ようにさせられている)。「自分があっている」という幻想から抜け出さず、ヒーロー面して弱者とした相手に手を出そうものなら、おせっかいと呼ばれるのは避けられないだろう。(日本人以外では。)世界の警察官を気取るアメリカに至っては、おせっかいやヒーローの域を超え、中東の人々には悪の根源とまで思われている。アメリカがよそさまの紛争・戦争に介入したことが中東の一般の人たちの生活を苦しめていることをアメリカ人は考えもしていないことを皮肉ったこの映画は、アメリカ人たちを狼狽させただろうか?。(以下の自己中論によれば、アメリカ人はその自覚はないだろう。)
いろいろな日常の場面で、自分は間違っていないと思い込むことは誰にでもある。(相手がそうであることを見て取ることもしばしばである。)最近では「中二病」なんてネットス
ラングがよく使われるようになるなど、人は自己中心的な考え、行動をしてしまいがちだ。(この自己中観は、学校空間の井の中の蛙現象の自己中観であることをこの自己中の人は気づいていないのですが。)自己中心的であるということは、自分自身を物事の中心と定義して、世の中の物事を解釈すること、また、そのような考えを元に他人のことを考慮しない行動をする性質のことである。自己中心的な人は自己中心的であることを自覚していないことが多い。はい。自己中の問題は、自己中的な「自己」観しか想定できない「自己」しか持てないことなのです。「自己エゴ」をもつと、即、「自己」中=エゴイストとなってしまうのです。
昔と比べて現在は自己中心的な人間が増えたといわれている。これはインターネットの普及(そんなに普及しているか?)によってだれでも情報発信者になれる(だれでもなっているか?)ようになったことや、親からちやほやされて育ったことが原因だという(そうだろうか?道具や親子関係にしか、原因が見つけられない発想を見直しましょう。)。実際ネット上には、プロでもない人間の偉そうなコメント(プロは偉いのでしょうか?)や、わざと貶めるようなコメントが多く残されている。(ネットの言説しか接触がない人は、ネットを過大評価しすぎています。)
人は誰しも自己中心的で、社会で(社会って何でしょう?社会で生きていますか?)生きていくなかで人は肥大した自己像を調整していく。しかし、大人になっても(この人は「大人」ですか?)自己中であり続ける人もいる。このような人は、自分の信じたいことしか信じず、周りに関心を持たず、常に自分の世界にとどまり続けようとする。自分に都合のいいことしか信じず、周りに視線を向けることをしない自己中心的な人は、自分はいいことをしているつもりでも、本人の自覚のしないところで加害者(?ことばが大き過ぎませんか?)になっていることがある。周りに無関心で現状維持をしたいと思っている(これはまた、別の要因ですね。)自己中な人は、現状に不満を抱いている人(要説明)にとっての加害者になってしまう。この展開は抽象的すぎて、もっと説明がないと理解できません。
また、自己中な人は適切な自己愛が育っていない。人を貶め、自分が優位に立つことで全能感を得ようとする人は、等身大の自分を直視できていない。自己愛とは自然体の自分に対する愛である。自分がすごい人間でないと自分の存在を自覚できない人は、あるがままの自分を認識することが必要である。アンダーラインの言葉を説明しながら、論を展開する必要があります。これらの「自己」「自分」観は、近代社会が「女性」に与えた「自己」観にかぎりなく近いようにみてとれますが。
自己中心的な「自己」論ではない「自己」や、女性的な「自己」ではない、「自己」論を展開してみませんか?