この映画がアニプレックスの製作、というか配給?だとは以外だった。はい。確かアニプレックスはアニメがほとんどだった。はい、良い気付きです。Animation Complexの和製英語の略Ani-plex.ソニーミュージッックの子会社です。「松嶋×町山未公開映画を観るTV」のDVDの販売元です。この映画は、ウガンダ出身のボクシング選手オウマ、彼の壮絶な人生のものがたりだったのかもしれない。(そうでしょう。)俺が殺したということは少年兵だったということか(はい)。8歳のころ。8歳には荷が重すぎるよな、と思う。何歳という問題ではないのでは?
10年も会っていない家族に会うためにがんばっているなんて、しかも最初はホームレスだったなんて信じられない。現実は「信じられない」ことでできています。
誘拐されるなんて政治に関することが自由に発言したり描いたりできない。表現の自由がないということか。戦争に耐えるためにマリファナを吸う。7歳の頃から。早い、早すぎる。現代でも様々な内戦国での現実です。
カシムが少年兵のとき「女の子は隊長の性的奴隷」という話があったが、戦争や紛争にもやはりつきものなのだな・・・と悲しい気持ちになった。「つきもの」という理解でよいのだろうか?
自分の子どもの母親のことを別れても親友だ、と言っているのがすごく素敵だとおもった。「素敵」な問題なのだろうか?さらにアイルランド人の家族がいるということが血縁関係に由来しない家族のかたちで、すごくいいなとおもう。そんな理解でよいのだろうか?が、しかし、女の扱い方を知らない(「女の扱い方」の理解が狭いのではないか?)なんて言っているが、まあ、別の女性に別の子どもがいるのだから、本当かどうか疑わしいものである。きっと冗談でいったのであろう(本気なのです。)。でも責任というか、しっかり考えているなとは思う。(そうか?)自分の子どもをどうしようとかっていう意識があるのは良いと思う。あまり責任を考えずに、こどもが出来てしまっているのではないかと思うから・・・と言ってる側からあーらら、まだ未確認のこどもが6人もいるんだ。笑 と思ってしまう。それにもう一点、こどもがアメリカに来るときのあのはしゃぎっぷりは28歳とは思えないのである。子どもが子どもに会っている、子どもが子どもを育てている、ような印象を持ってしまった。カシムを「子ども」にしかしないものはなんなのだろうか?つまり「大人」になれない理由はなんなのだろうかを考えてください。
試合に負けたのはジムの外に問題があるからだ、というような指摘をうけていたような気がする。試合の時期にパーティーをしていちゃ勝てない。でも友人が居てくれる事もボクシングをする自分にとっては必要であると思う。その誘惑に負けずに、やるべきことはやってその後に友人とパーティーをする、というようなメリハリをつけることが大切だと思いたい。(なにか普通の「優等生」の発想ですね。)
国を追われている身だから、ムセベニ大統領に「故郷に帰りたい」といっているのか。脱走兵は、国家反逆罪の罪人なのです。
脳や言語の障害が出てくるボクシングは改めて怖い物だと思う。(アマチュアでは、2013年まで、ヘッドギア着用は義務でした。)
ウガンダに帰国したらヒーローのような扱いだ、その母国でのシーンで少し映画の中で気になる、気に障る?シーンがあったのだが、どうしてカシムはボクシングの空振り、パンチなどをエアーやっていたのだろう。なんだか腹立たしい・・・。それって威嚇行動にも思えるし、怖がらせようとしているのかもしれないけど、逆に弱そうに見えると思う。虚勢のように見えるというか。そうですよ、その両義性の表現でしょう。
アクトオブキリングという映画でもやっていたが、住民たちが演じるという実験的な試みは歴史を知る、歴史は繰り替えされるということに変化をもたらすものなのではないかな、と思う。はい、歴史の自己省察が、歴史を変えていくのです。
アメリカンドリーム、ホームレスから始まり、ボクシングを通じて少年兵は夢を叶えたのだろうな、と思う。夢をかなえた、その背景にはものすごい苦労や葛藤などがあるのだろう。(なにか「夢」をファンタジーしてませんか?「夢」のイデオロギー性を考えましょう。)カシムオウマ、彼の人生こそが夢を叶えるサクセスストーリーなのではないかと思った。これこそアメリカンドリームなのではないだろうか?「アメリカンドリーム」を単に、肯定しないこと!「アメリカンドリーム」の政治性を考えましょう。