千と千尋の神隠しを見て、ディスカッションに移る前に、椎野先生が一時的に居なくなったことに対して「神隠しにあったか?!」という会話があったことには笑った。はい。
千と千尋の神隠しはどのジブリ作品をみても、自分は夢中になっていた世代だと思われる。おそらくちひろという名前の転校生がその年に来たこと、そして同じ名前の子が主人公として映画で扱われるということで、非常に印象深いのである。この作品は始まりから終わりまで、セリフを一字一句言うことが出来るといってもいいくらい、何度も観ている。
この映画の舞台になっているのが、お湯屋である、しかしただのお湯屋ではないということはなんとなく分かっていた。銭湯にしちゃ、身体も洗ってあげて、宴会もできて、変な銭湯だー、と思っていた。「湯女ゆな」という日本語を理解してから、映画をもう一度観てください。
千と千尋の神隠しは、一見、主人公千尋の恋と不思議体験(神隠し)の物語という感じがするが、レジュメのまとめにあるように、「環境と人」について描いているということにはわたしも賛成だ。それは表面の物語でしょう。ナノアルカワノヌシが取り込んでしまったもの、そのナノアルカワノヌシがお湯屋で吐き出したもの、落としたかった「汚れ」は、近代の環境の現状を表現しているとも取れ、近代に対するアンチテーゼだと捉えられると思う。映画のなかではお湯屋に癒されに来る神は近代の人間から被害受けている環境であるのかもしれない。汚れ(「穢れ」)は、網野史学のキーワードですが、思想の近代主義者の宮崎監督と違って、単にアンチテーゼだけではなく、両義的な機能があるのです。)
レジュメの蛇足で書いてもあり、ディスカッションで宮崎駿の女の子観もおかしいという話が出たがなかなか興味深い。宮崎駿の女性観を分析してみるとおもしろかった。純愛自体には問題がないのかもしれないが、いたいけな少女ばかりでしかも。母に宮崎駿アニメ作品の感想を聞いてみると、「かなり現実離れしてるよね・・・かなりメルヘンティックだな、と思う。現実ではありえないこと描いてるな、という印象」だそうだ。母は現実主義なのかもしれない、現実をみてきたのだろう。この感想を聞いて、メルヘンだと思えるのは正常なのではないかな、と思う。それにいつか出会えるだろう、白馬の王子様的なものに出会えるだろうというような幻想を思い描いていなくてよかった、と思う。ディスカッションでほかの学生も言っていたが、男性が人生を生きる中で、ジブリ作品などのメルヘンなものに触れてきて、それが理想だと思っていたが、現実の女性と人間関係を持っていくことで、その理想は崩される、しかし、それでもなお理想を求めようとしているのか?それとも、現実と理想と離して考えているのだろうか。離して考えているとしたら、それはすこし悲しいことなんじゃないか、と思う。理想を追い求めて、毎回それに似たような人を選んで交際する・・・毎回新しい驚きというか、そのひとの持つ輝きというか、その人の素晴らしさに気がつくことが出来ないんじゃないかなと思うからだ。それだったらそもそも理想なんてないほうが良いのではないか、と思ってしまう。ディスカッションの最後の方ではそんなことを考えていた。実は多くの人は気づいていないが、この「理想」とは、小林の卒論で言えば、ポルノ的視線なのです。ジブリ作品には、多くの人は気づかないが、ポルノ的視線が満載のアニメなのです。
ジブリが日本を代表するアニメーション作品になっている、それはノスタルジーを感じさせるからなのか、そのノスタルジーを日本だけではなく、世界でもアカデミー賞長編アニメ賞をとるのは、世界の人々にもノスタルジーを感じさせるからなのか・・・。いや、思想の近代主義者として、現在からノスタルジーという過去を作り出してしまって、その過去が破壊されるのをロマンティックに享受している自分を良い人だと思っているだけなのですね。
カオナシとは?という男子学生からのなげかけに対し、「正解はもともとつくっていないから答えは出せない」のではないか?という意見を聞きながら、明確に答えが出ている映画なんてあるのかしら、と思った。映画を観る人によっていろんな捉えようがある、しかし、監督のメッセージというものはあるのだろうと思う。宮崎駿のメッセージはだいたい同じようなものであるのだと思った。ノスタルジーを感じさせるもの、「古き良きむかしの日本・・・」だと考える。カオナシは、近代日本男性の象徴なのですね。
そういえば、カオナシ関連でレジュメでよくわからなかったことがあった、「カオナシ」は近代の契約と欲の象徴だとあったが、どういうことだか皆分かったのだろうか? 日本男子のポルノ的視線なのですが。