映像は、会議室のプレーヤーやパソコンを使っても見ることが出来なかったらしいので、自分も見ることができないだろう。ということでディスカッションをもとにレポートを書いていこうと思う。と思ったら、YouTubeに載っているらしく、見てみた。
「生きづらさに向き合って~ある精神科クリニックの挑戦~」
https://www.youtube.com/watch?v=c3PtqT0SPWc
1950年までの私宅監置ということは、精神病棟というのとさほど変わりはないのではないだろうか。どうゆう意味でですか?「むかしマットの町があった」の映画の舞台になったプリエステも出ていた!!なんだかうれしい!どのように関連しているか書いてください。
精神科の医師が医療界でランクが下なのも、治療方法などが明確ではないからだというような意見が出ていたが、それらしくすれば、それらしく見えるのだな、(意味不明)と改めて思う。病名がつけられると、さも病気だということが分かって(・・・いや、認識して、と言う方があっているかも?)認められるというのは確かにあるかもしれない。はい、医学が「病気」と認定してくれたのです。しかし、「自分は病気だ」という意識がまたその自分がおかしいということをさらに意識することになるだけなのではないか、とも考える。(否、「病気」観の政治問題です。)映像の中で、「いつも専門家が偉くて私たち(患者)は無力になりやすい」という発言があり(権威主義的態度)、「むしろ患者の方が痛みに関してはプロだ」という発言があった。その痛みを乗り越えたということではもう偉いのは患者の方であると思う。(偉いごっこをする必要はないよ)痛みの分かる人はそれを経験したことがある人だけだと思う。(そうだろうか?この経験主義だと当事者が孤立する結果になるのです。)「支援する人と患者が普通に話している、それが当たり前になるといいな」というような話があって、???
べてるの家でのシーンでとても好きなシーンがあった。統合失調症と言われている人々が次々に自分の病名を言っていくところだ。その中には「統合失調症 過去依存タイムトラベル型 脳内フリーズタイプ」や「統合失調症 無人島漂流型」という名前があった、実に的確に自分のことを語っていると思う名前ばかりだった。この自己病名がわたしはすごく好きだ。(患者だけでなく、みんなも自分の特徴の名前をつければよいと思う、)自分のことを的確に表現できているということは、やはり遠藤さんが言っていた「自分が怪我したとき、その痛みは自分が一番良く分かっている」という言葉につながるような気がする。自分主義ではなく、命名行為の力を理解しましょう。
まず、レジュメに「認知症」が精神疾患に分類されるとは意外だった。高齢者に関わる仕事をするので研修でならっているが、認知症が精神疾患に入っていた記憶はない。どちらかというと脳に関連する病気であったという記憶がある。「脳」と「精神」を分けているのですね、でも医学的には同じなのですよ。
ディスカッションを進めていく上で精神病というものは存在しないのではないかと思えてきた。はい、存在しませんが、問題はその存在しない精神病をどう捉えるかなのです。
このプロセスが市民社会運動のプロセスに似ているように感じた。はい、市民社会形成過程そのものです。精神疾患者が社会復帰をするためにそれを支援するということは、レベル1の段階で、確かに目先の支援にはなるというか、一時的な救いにはなるのかもしれないと思う。(対症療法)だからそれを支援している人は尊いと思う。社会的にもそんな支援をしている人が偉いと言われてそこまでが限界、と思ってしまわれがちなのではないかな、と思うのだ。けれどもレベル2が存在すると思う。その、レベル1で表面的な問題は解決できるけれどもそれでは根本的な解決にはならなくて・・・、その根本原因はなんなのか?と考えることが、そしてそれを解決しようとする動きがレベル2にあたるのではないかと思う。(原因療法、医学でもレベル1、2はあります。)
医師に従属しないということがレベル2にあたるのかな?と思う。(否、レブル3となります。)精神疾患は誰にでも起こりうると思う。ディスカッションでもあったからかもしれないが医師が病名をつけること自体がもしかしたら変な、おかしいことなのかもしれない、と思うようになった。ただ感情のその幅が大きいだけなのではないかと思う。レベル3は、医学でなく、社会的問題となります。
またディスカッションで精神障害を個人だけに焦点を当てているという意見があった。社会的な構造的な原因を問わないのはなぜなんだ、環境のせいで罪を犯したり、精神病と言われているかもしれないのに、と。それを考えられるのが社会学であるのかな、と思った。社会精神医学のレベルです。社会学はまだです。