コールミークチュという映画では、ウガンダ(カシムの母国です、こうして映画を結びつけていくと世界が立体的に見えてきます。)の同性愛の人々が直面している過酷な制度や状況について知ることができた。同性愛に対してはそこまで(どこまで?)抵抗がなかった。稲場氏が言っていた通りにウガンダの同性愛者コミュニティーは確かにしっかり機能している、組織になっていたのかもしれない。(いわゆる途上国にも独自のNPO組織があるのです。)
稲場雅紀氏の講演ではアフリカの現状、映画の舞台のウガンダを中心にお話を聞くことが出来た。ゲストの稲場氏のトークで本当に驚いたのが、「世界における同性愛者の権利」の地図に基づいたお話である。この地図は文字通り同性愛者の権利がどれくらい保証されているか、迫害なのか、承認なのかということだけだ、それだけしか読み取れないのだろう、と最初私は思っていた。迫害されている国にはもっとも重い刑で死刑が存在し、禁固刑、終身刑などがある。「迫害」の国が赤く塗られている。緑は「承認」で(そのなかでも婚姻、婚姻と同等な代替制度、明らかに婚姻に劣る代替制度、カップル共同養子縁組などと別れている)、黒ぶちに中が白塗りのマークがあるところは「保護」、黄緑は「特定の法律なし」である。これらの赤い色の国の歴史をみてみると、イギリス領であったことがある地域ばかりなのだ。それはアフリカ大陸に多い。さらに南米・中米がほとんどの国・地域で緑の「承認」であるのに対して、ベリーズ、ガイアナ、バルバドス、セントクリストファー・ネイビス、などその近辺は赤く記されており、なぜ周りが緑が多いのに・・・と疑問を抱かせる。それはイギリスが占領していた国であったことがある国なのだ。国名からして英国、ヨーロッパ系?が支配していたことは明らかだ。
これらの国に同性愛反対法や、迫害が起こっているのは、旧宗主国イギリスの法律を運用しているからである。さらに言えば、イギリスのキリスト教も密接に関連していることなのであるということが分かった。法律や制度だけでなく、道徳や哲学や思想も運用してしまっているのである。劇中でもキリスト教会の牧師が「同性愛は自然ではない」といっていた。さらに裁判官がバッハ?のような白いカツラを被っていたのもこの影響である。
後発近代キリスト教国家と呼ばれるのが、ウガンダないしイギリス領であったことがある国であることは間違いない。ウガンダの歴史で、伝統で反同性愛があったわけではない。これは、イギリスのキリスト教の反同性愛の倫理を内面化しているのだ。それをあたかも昔からあったかのようにしてしまう。入植によってこの倫理や思想を持ち込んだのはイギリスである。そしてそこに住む人々はそのキリスト教の文脈・思想をそのままインストールして、そこからアップデートされないのである。これを聞いて、???
差別をよりいっそう強くするのがメディアである、と思ってしまう。わたしはトークの時に稲場氏に映画の感想を聞かれて答えたのが、メディアによって煽られる民衆についてであったが・・・、なんという影響力、というかなんという強大な力なのだろうか、と思える。まるでそれが以前から存在したかのように作ることが出来るということを知らずにメディアに接するのと、そうでないのとでは、違うと思う。(これがメディアリテラシーなのかも)はい、日本でもよく起こっています。
この映画は、ウガンダの同性愛者の人権問題だと思ってしまう。そう捉えがちだが、それは表面上の問題であって深いところに、構造的な問題がある、根を深くして存在している。構造問題の具体的なものは何かを考えてください。こういう構造でこのウガンダは運営されているという認識をしていくのが良いのではないかな、と思う。それが根本的な解決につながるかもしれないと思った。そのメディアに翻弄されるばかりで、迫害の理由根本原因を考えてみることがいいのではないかな、と思う。この理由を突き詰めていくのはこの問題に限らないのかもしれない、万事にいえるのかもしれない。構造問題の突き止め方の具体例を提示してほしい。